第142回教父研究会のご案内

第142回教父研究会は、擬ディオニュシオスをテーマとし、2名の方々のご提題を中心としたシンポジウムの開催を予定しております。研究会は、2012年12月22日(土)13時-17時、聖心女子大学1号館4階大会議室において開かれます。皆様のご参加をお待ち申しあげております。 谷隆一郎(九州大学名誉教授、日本カトリック神学院客員)「神への関与・分有における「意思的聴従ないし信のアナロギア」─擬ディオニュシオスと証聖者マクシモス─」 メッセージ:擬ディオニュシオス・アレオパギテースは、歴史的にも本質的にもニュッサのグレゴリオスをはじめとするカッパドキアの教父たち(四世紀)と証聖者マクシモス(十世紀)との中間にあって、東方・ギリシア教父の伝統の一つの媒介的位置に立っている。そうした擬ディオニュシオスの一方の主著『神名論』の文脈に漲っているのは、神的エネルゲイア(働き、活動)についての「関与・分有のアナロギア」という捉え方である。しかし、万物におけるそのアナロギア構造は、単に事実的客観的に静止し完結したものではなくて、全体として「変容・生成のダイナミズム」に貫かれており、その中心に人間が存する。すなわち、神的エネルゲイア(あるいは善性の働き)への関与は、われわれの意志的聴従のアナロギアに従って、その分だけ顕現し受肉してくるであろう。 そこで今回の提題では、ディオニュシオスでの「神への関与のアナロギア」の基本的意味(志向)を見定め、さらには証聖者マクシモスにおける「意志的聴従(信)のアナロギア」と、そこに潜む「神的働きと人間的自由・意思の働きとの協働」の機微を主題として吟味してゆきたい。そしてそれは、およそ人間・自己が「神の現成に何ほどか与り、自らの自然・本性(ピュシス)を開花させてゆく道行き」の可能根拠を、つまり「ロゴス・キリストの神人的エネルゲイアの経験」をいささか問い披くことにもなるであろう。 山本芳久(東京大学准教授)「トマス・アクィナスのキリスト論:「最高善の自己伝達」としての「受肉」」 メッセージ:ディオニシウスに由来するネオプラトニズム的なダイナミズム―「善は自らを拡散させる」という根本原理―は、トマスの思索の運動を根底において規定している。そのことは、『神学大全』の全体構造からも明らかである。 『神学大全』の第Ⅰ部の神論においては、「神が諸々の事物を創造にまで産出したのは,諸々の被造物に自らの善性を伝達し、これをこれらの被造物を通じて表現するためであった」と語られている。 第Ⅱ部の人間論・倫理学は、「自己」と「他者」との相互関係を軸にすると、以下のような仕方で再構成することができる。すなわち、人間が他者との関係に入りこむのは,まずは,自己のみの力では及ばないことを他者によって補ってもらうためである。だが,最終的にはそのような欠如によって促される在り方に留まるのではなく,自らの有する存在の豊かさを他者へと伝達し共有するためにこそ、人間は、他者との関係性を構築していくのであり、そのなかで、人間は自己譲与的な神の似像として完成していく。 第Ⅲ部のキリスト論においては、「最高善〔神〕の性格には,最高の仕方で自己を諸々の被造物に伝達することが属している」と語られ、受肉の根拠が最高善である神の善性の自己拡散性に求められている。十字架の自己無化にまで至るイエスの生涯は、逆説的にも、溢れんばかりの神の存在の充実の最も豊かな発露なのである。イエスの活動による人間の再創造(recreatio)のダイナミズムは、創造(creatio)のダイナミズムと同様、存在の力動的な自己譲与的活動というディオニシウス的な命題に依拠しながら語り出されている。 本発表においては、このような「善の自己拡散性・自己伝達性」という観点から、本格的に取り上げられることの少ないトマスのキリスト論に新たな光を当てると同時に、力動性を有するキリスト論を光源とすることによって、トマスの神論や人間論をも新たな仕方で照らし出し、力動的な仕方で理解しなおすことを試みたい。キリスト論のなかでも、とりわけ、キリストにおける「情念」の問題に焦点を絞りながら考察を進める予定である。 特定質問者 田子多津子(秋田大学)

141st JSPS seminar

141st JSPS seminar, the «Symbolism Symposium», will be held on 29 September 2012 1 pm to 5 pm at the Main Meeting Room, 4th fl. Bild. 1, University of the Sacred Heart. Three presenters will deliver their papers. Liana Trufas (Adjunct Lecturer, University of Tsukuba), ‘Symbolic Interpretation and its principle in Dyonisius Areopagite.’ Kyoko Nakanishi (Adjunct Lecturer, Meiji Gakuin University), ‘Myth and the sympolic interpretation in Julian’s Against the Galilaeans and Gregory Nazianzen’s Against Julian.’ Nanae Sakata (Graduate School of Sophia University), ‘The Light of Abbot Suger of Saint-Denis, Resemblance and the disagree with Pseudo Dyonisius.’

第141回教父研究会のご案内

第141回教父研究会は、シンボリズムを共通テーマとし、3名の方々のご提題を中心としたシンポジウムの開催を予定しております。研究会は、2012年9月29日(土)13時~17時、聖心女子大学1号館4階大会議室において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 リアナ・トルファシュ(筑波大学非常勤講師)「ディオニシオス・アレオパギテースのシンボル解釈とその原理―聖書における若干の実例―」 メッセージ:周知のように、いわゆる『ディオニシオス文書』は六世紀の前半頃に知られるやいなや、キリスト教の伝統において絶対的権威とみなされ、神秘思想や否定神学、神学的美学、スコラ哲学などの各分野に、千年以上にわたり多大な影響を与え続けてきた。他方で、同伝統においては、『文書』が聖なるシンボルにまつわる根本的な文献であることも広く認められている。というのも、『文書』で述べられている聖なるシンボルの理論は、キリスト教世界における同様の伝統理論の中で、最も完成されているからである。ところで、ディオニシオスのシンボル理論がもつ諸側面を、様々な観点から区別することができる。例を挙げるなら、シンボルが存在し得る宇宙論、割符としてのシンボルがもつ意味、シンボルの存在論的および形而上学的基礎、シンボルの使用文脈(聖書や秘蹟におけるシンボル、また、それについて解釈・説明を行う際に、ディオニシオスが用いる他のシンボル)、シンボルの必要性、目的、役割、シンボル解釈の原理、シンボル解釈を行なう者にとって必要な条件など。 本発表の目的は、ディオニシオスにおいて 1)シンボルの解釈を司る原理とは何かを、また、2)解釈を行なう者が満たすべき条件とは何なのかを明らかにすることである。そのために、聖書の記述から幾つかのシンボルを例に取り、こうしたシンボルについてディオニシオスが行なう解釈を紹介・分析したい。 キーワード: 対応、類比、非類似的類似性、観照、上昇 中西恭子(明治学院大学教養教育センター非常勤講師)「ユリアヌス「ガリラヤ人駁論」とナジアンゾスのグレゴリオス「ユリアヌス駁論」における神話と象徴解釈」 メッセージ:紀元後四世紀のローマ皇帝、ユリアヌスの宗教観の根底には、人工的に再構築した「父祖代々の習慣」に回帰することで後期ローマ帝国における倫理の頽廃を除こうとする教化的な意図がある。キリスト教批判の書「ガリラヤ人駁論」でユリアヌスは、寓喩的・教訓的解釈を媒介とせずに聖書を読む立場から、旧約の登場人物の不品行の挿話や、磔刑に処せられた謀反人としてのイエス像を人倫の範型をもたらさない現象として指弾した。ヘレニズム・ローマ神話の神統譜および英雄叙事詩にも顕著にみられる神々の怒りや不品行に関する挿話を論じることを彼は故意に避けている。 神話に対するユリアヌスのこのような態度は、異教的想像力の典型例ではない。ナジアンゾスのグレゴリオス「ユリアヌス駁論」は、このことを明らかにする。グレゴリオスは、ユリアヌス治下で信仰の相違から宮廷医師を辞した弟カイサリオスからユリアヌスの人となりや言動に関する情報を得ていたが、直接にユリアヌスの著作を読んでいた形跡は薄い。彼の描き出すユリアヌスの「ギリシア人の宗教」はきわめて人工的な構築物である。在来の地方宗教の多様な活力や神話の猥雑さのみならず、信仰の模範としての殉教者たちの存在や、寓喩的・教訓的な解釈が神話解釈を豊かにする可能性から目を背けるユリアヌスに対して、グレゴリオスが提示しようと試みたより包容力豊かな象徴解釈とははたしてどのようなものだろうか。本発表では、「ユリアヌス駁論」における十字架の徴の解釈を手がかりに、両者の神話および象徴解釈に対する態度の相違について考察を試みたい。 坂田奈々絵(上智大学神学研究科博士後期課程)「シュジェールの光-擬ディオニュシオスとの類似と断絶について」 メッセージ:サン=ドニ修道院長シュジェール(1080-1151/1/13)の指揮のもと、1140年と1144年に完成し、献堂式が執行されたサン=ドニ修道院附属聖堂の西正面部分と祭室部分は、「ゴシック建築」と呼ばれる建築様式の端緒であるとされてきた。シュジェールはこれらの改築作業と献堂式のありさまを、主に『統治記(”Sugerii Abbatis Sancti Dionysii Liber de Rebus in Administratione sua Gestis”)』および『献堂記(”Scriptum Consecrationis Ecclesiae Sancti Dionysii”) 』に書き記した。美術史家のE.パノフスキーは、シュジェールによって聖堂の各部分に刻まれた碑文や、度々行われる宝石の美についての省察の中に、擬ディオニュシオスに端を発する「光の形而上学」からの影響を見出し、シュジェールをその影響下にある人物として紹介した。そのためゴシック建築という建築様式は、擬ディオニュシオス神学の西欧における需要例の一つとして広く解釈されてきた。しかし現代では、様々な立場から、擬ディオニュシオスからシュジェールへの直接的な影響は否定されてきている。  本発表ではこうした背景を踏まえ、パノフスキーがシュジェールを「光の形而上学の影響下にある」とみなしたところの彼特有の「光」の働きと役割について、主に『統治記』の記述にもとづいて分析し、また擬ディオニュシオスの光の思想とどのように異なっているのか、あるいはどのように類似しているのかについての考察を行う。それによって、シュジェールという人物がゴシック建築に何を見、何を重要視していたのかを明らかにしたい。

140th JSPS seminar

140th JSPS seminar, «Augustine Symposium», will be held on 30 June 2012 1 pm to 5 pm at the Main Meeting Room, 4th fl. Bild. 1, University of the Sacred Heart. Prof Emeritus Shinro Kato will deliver his paper. Shinro Kato (Tokyo Metropolitan University), ‘Eternity and time: Augustine’s Confessions Book 11.’ Respondents Yoichi Arai (Prof, Tokyo Gakugei University) Chisato Tauchi (Adjunct Lecturer, Sophia University) Makiko Sato (Adjunct Lecturer, Keio University) Shotaro Yamada (University of Tsukuba)

第140回教父研究会のご案内

第140回教父研究会は、<アウグスティヌス・シンポジウム>の開催を予定しております。例会の前には総会も開催されます。研究会は、2012年6月30日(土)13時~17時(12時より運営委員会、12時半~13時まで総会)、聖心女子大学1号館4階大会議室において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 加藤信朗(首都大学東京名誉教授)「永遠と時間―アウグスティヌス『告白録』第11巻をめぐって」 メッセージ:「永遠なる神が時間の世界を作った。」このパラドクスを生きることに束の間の生を生きる人間に無限の生が宿る可能性が開かれる。 「始めに神は天と地を作った(In principio fecit Deus caelum et terram)」(Gen.I,1) この『創世記』冒頭の一行の解釈にアウグスティヌス『告白録』第11巻は捧げられている。しかし、「時間の初め」とは何か?「世界が作られた初めとは何か」?「時間が作られる」とは何か?『創世記』冒頭の一行はこれを「謎」として人間に問いかけている。 『告白録』第11巻の探求はこの謎に関わる「永遠なる神」からの問いかけであり、この問いかけへの応答である。これをアウグスティヌスの「時間論」とし時間存在としての人間存在の構造分析から「永遠」を垣間見るのではなく、「永遠」への関わりの中で「時間」の構造を問うことが求められる。 『告白録』第11巻の論述を追いながら、この問題をご参加のみなさまと共に「人が人としてあるかぎりで、この「いま」「ここ」をいかに生きるか」の問題として考えたい。 荒井洋一氏を司会者とし、始めに加藤が問題提起し、田内千里、佐藤真基子、山田庄太郎の三氏からの応答を経て、参加者全員により討論したい。 特定質問者 荒井洋一(東京学芸大学教授) 田内千里(上智大学非常勤講師) 佐藤真基子(慶応義塾大学非常勤講師) 山田庄太郎(筑波大学)

第139回教父研究会のご案内

第139回教父研究会は、2012年3月3日(土)14時~17時、聖心女子大学1号館4階大会議室において開かれます。皆様のご参加をお待ち申しあげております。 津田謙治(西南学院大学講師)「テルトゥリアヌス『マルキオン反駁』における場所と二神論の問題」 メッセージ:創造神と救済神との分離によって二神論を説いたマルキオンは、144年頃にローマの教会から追放されたとされている。この人物の教説を取り上げて、その細部に至るまで論駁を行った教父の一人がテルトゥリアヌスである。彼は恐らく207年頃に、現在残されているかたちの『マルキオン反駁』第一巻を執筆し、最終的にこの書物は全五巻の大著となった。 本発表では、第一巻で取り上げられた多神論的枠組みに対する批判の中から「場所」に関する議論に焦点を当てる。マルキオンのように二神論を説くことは、万物を包括する神と「場所」の関係から齟齬をきたすとテルトゥリアヌスは批判している。このような批判は直截的にはエイレナイオスに遡るものであるが、巨視的に捉えるならば、使徒教父の言説やアレクサンドリアのフィロンなどヘレニズム的ユダヤ人の議論の中にその萌芽を見出すことも可能である。ここではテルトゥリアヌスのこの議論が含む問題を明らかにし、歴史的な視野の中で捉え直すことを試みる。 特定質問者 水落 健治(明治学院大学教授)

第138回教父研究会のご案内

第138回教父研究会は、2011年12月3日(土)14時~17時、聖心女子大学1号館4階大会議室において開かれます。皆様のご参加をお待ち申しあげております。 寺川泰弘(筑波大学大学院人文社会科学研究科一貫制博士課程倫理学専攻)「ヨアンネス・クリマクスにおける「神の前に立つ人間」とは誰か?」 メッセージ:筆者はこれまで、ヨアンネス・クリマクスの著した”Scala Paradisi”(『楽園の梯子』)の神へと向かう霊的な30階梯の第一の階梯から第三の階梯に標づけられた個々の主題に基づいて考察して(昇って)来た。そこでは、「修道の初めに立つ人間」としての修道士が「神の前に立つ人間」へと昇華して行くために、どのような生の在り様が追求されなければならないかが展開された。  クリマクスにとって、修道士とは、προκοπή (前進)という言葉が十全に言い表しているように、絶えることのない修練のうちに彼の生全体が依拠しており、日々、神の呼ばわる声に従って神へと向かう霊的な苦闘を祈りのうちに闘い抜くことによって、今ある自らを超え出て、一段一段、神へ近づいて行こうとする存在である。しかし、こうした存在になって行くためには、「この世の放棄」という超え難い障壁を乗り超えて行くことが修道士に敢然と要求され、様々な諸相を通じて襲い来る悪魔との相克を経て、神を仰ぎ見る生への向き直しに否応なく迫られるのである。  したがって、クリマクスはこの初期の三段階において「この世の放棄」を実現するための方向性を示す。それが、日毎、新しくなることを目指して実践に従事する修道士の精神的、内的な心の在り様である、ἀποταγή (放棄)、ἀπροσπάθεια (欲望からの離脱)、ξενιτεία (流謫-この世の寄留者となること)である。これらを綜合することによって、クリマクスの求める「神の前に立つ人間」としての生の輪郭がいっそう明らかにされるであろう。そのことを本発表の考察の中心に置きたい。