第154回教父研究会のご案内

第154回教父研究会は、2015年12月19日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階オープンスペースにおいて開かれます。 阿部善彦(立教大学)「エックハルトの「子であること」理解について―「父」「一」の観点から―」 メッセージ:  本発表では、エックハルトにおける「子であること」の理解について、その基本的な特徴を、「父」「一」の観点から、聖書的、教父的思想源流との関係を確認しつつ、論じることにしたい。実際、エックハルトは「父」に「一」が帰せられることについてしばしば言及している。 「一は、すでにしばしば語られたように、父に帰せられる:unum, ut iam saepe dictum est, appropriatur patri」(In Io, n. 549)。 「聖人たちは、一なし神的なものにおける一性を、第一の基体ないしペルソナ、すなわち父に帰している:sancti unum sive unitatem in divinis attribuunt primo supposito sive personae, patri scilicet」(In Io. n. 562)。 「父」を中心にしたエックハルトの思想展開は、父子聖霊の三位一体論に全面的に依拠するものであるとともに、父子聖霊について語られる聖書に全面的に依拠するものであり、必ず、説教にせよ注解にせよ論考にせよ、聖書解釈として、何らかの聖句の解釈とともに語られる。したがって、三位一体論、聖書解釈という観点を抜きにして、エックハルトの思想は、正確に理解できない。  本発表では、以上の問題理解に基づいて、まず、エックハルトの父理解が特徴的に表れている聖書註解個所として、『ヨハネ福音書註解』からいくつかテキスト箇所を取り上げて考察を進める。そのうえで「子であること」についてさらに考察を進め、最後に、「ドイツ語著作」におけるいくつかの特徴的表現を取り上げ、思想連関を確認したい。 出村和彦(岡山大学)「アウグスティヌスにおける「貧困」、「病」そして「老齢」」 メッセージ:  アウグスティヌス (354-430) は、「貧困」にどのように関わっていただろうか。提題者はこのテーマを、日豪の二国間共同研究や科研費基盤研究で追求してきた。アウグスティヌスに特徴的な関わりは、可視化されてきたとされる「貧困」という事態に対して、その現状 status quo を変えるものではなく、むしろ、レトリカルな表現のうちに、人間としての精神的な再構成を求めるものであった(注1)。そこでは貧者も富者もともに、よく生きる人としての「徳」が問われるのである(注2)。しかるに、生きていく人の現状として、常に忍び寄り寄り添うものに病と老いがあった。生涯にわたってアウグスティヌスの身に帯びたこの二つの現状は彼と切っても切れないものである。本発表では、『告白』での若き日の病とその回復の記述や、ポシディウス『アウグスティヌスの生涯』の最晩年の記述、および P・ブラウンの『アウグスティヌス伝』で取り上げるアウグスティヌスの老年観や「世界の老齢化」というテーゼなどを検討しながら、晩年まで至るアウグスティヌスの一貫した人生のとらえ方を考察したい。 注1 出村和彦・上村直樹、『転換期における「貧困」に関するアウグスティヌスの洞察と実践の研究』科研費報告書、2012年、本冊79頁+別冊85頁 注2 Kazuhiko Demura, ‘Shaping the Poor: The Philosophical Anthropology of Augustine in the Context of the Era of Crisis’, in G.D. Dunn and W. Mayer (eds.), Christians Shaping Identity form the Roman Empire to Byzantium, Leiden, 2015: 248-265.

第153回教父研究会のご案内

第153回教父研究会は、2015年9月26日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館1階メディアラボ2において開かれます。 徳田安津樹(東京大学)「神を「測量」する―クザーヌスの「知ある無知」と古代の数学的神学―(仮)」 メッセージ:ニコラウス・クザーヌス (1401-64) は枢機卿や司教として教会・修道院改革に尽力し、法学・数学・自然学・写本蒐集など様々な場面で活躍しつつ、独特な哲学・神学思想を形成した人物として知られている。このような多面性のためにクザーヌスの複雑な思想的背景については長く議論されているが、近年の研究により、数学的・幾何学的思惟の背景が明らかにされつつある。本発表ではこれらの研究を引き受けて、『知ある無知について』(De docta ignorantia, 1440) を中心に、クザーヌスの前期思想における三位一体論・キリスト論と古代哲学者・教父の数学的議論の関係とその意義を明らかにすることを目的とする。  『知ある無知』の体系は、「あらゆる探究は前提された確実なこととの比較によって比を媒 介としてなされる」という思考(本発表ではこれを「測量的認識論」と呼ぶ)に基づいて おり、そのため本著において真理たる神はまずもって「厳密な相等性」(aequalitas praecisa) とされる。この「相等性としての神」と新プラトン主義的な「一性としての神」の関係から三位一体論が展開されるが、クザーヌスはその三にして一なる神の把握を助けるために「古き人々の道」(vetrum via) として数学・幾何学を用いている。発表内ではこうした数学的議論がクザーヌスの神学的議論にとっていかなる役割を果たしているのかを示して行く。 鳥居小百合(岐阜県立羽島北高等学校講師)「新神学者シメオンの光体験」 メッセージ:十世紀から十一世紀を生きた新神学者シメオン (949-1022) は、東方キリスト教会において神学者の称号を有する三人のうちの一人である。シメオンの思想は自身の大きな二度の光体験によって確立されており、その思想は当時の教会当局からは危ないものと捉えられていた。なぜならシメオンは教会のヒエラルキーではなく、優れたシメオンの霊的指導者であった師父シメオンの教えを重んじていたからであった。たとえば、師父シメオンの死後、一修道士であった彼のイコンをキリストや聖人たちと並べて飾り、毎日、師父シメオンのための祭儀を執り行うなど、師父シメオンをとても崇めていたのである。シメオンはこの霊的指導者であった師父シメオンを一度目の光体験において見ている。  本発表ではシメオンの二度の光体験について語られている『教理講話』の第十六講話と第二十二講話を考察する。このシメオンの光体験を考察することによって、シメオンの人間性、そして彼の思想の全体像が理解できるからである。 またシメオンの神化思想についても考察してみたい。シメオンの神化思想はこの世から始まっていると『倫理的論考』第十番ではっきり述べている。その箇所を読み解いていきたい。

第152回教父研究会のご案内

第152回教父研究会は、2015年6月27日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館1階メディアラボ2において開かれます。会場が上智大学から変更しましたので、ご注意ください。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 例会に先立って13時から14時まで同所で総会が開かれます。総会案内については追って連絡します。 戸根裕士(同志社大学)「ミラノのアンブロシウス『信仰について(de fide)』をめぐる一考察—一・二巻の成立の政治的背景並びに神学的文脈」 メッセージ:ミラノのアンブロシウスは司教として古代ローマ帝国末期の政治に深く関わると同時に、西方教会の教会博士の一人にも数えられて、教会の伝統の中に確固たる地位を持っていた。けれども、アンブロシウスの思想というものには独自性が認定し難く、その背後に複雑な政治的要因並びに神学的配慮が存在していたことが近年の研究で少しずつ判明している。そこで本発表では主著の一つ『信仰について(de fide)』全五巻を取り上げ、政治的背景や神学的文脈を整理して、その上で一・二巻の独自性を解明する。そこでまず『信仰について』の概説を簡単に説明し、その内の一・二巻に対する従来の研究の関心の所在を整理する。従来の研究の関心は、一・二巻には批判の対象が明確に意識されているにも拘わらず、アンブロシウスがその対象の具体的な見解の説明を意図的に回避している理由に寄せられてきた。これに対して、筆者は一・二巻のキリスト論の構成の独自性に着目することで、人間イエス・キリストの誕生の説明の焦点が、聖書の不明確な記述の解明にあって、当時の論争で主流の哲学的用語にあまり依拠していない点を指摘する。この一・二巻の特徴は、社会問題に関する378年以前の著作との連続性を明示し、ニカイア派の通説の単なる踏襲に留まる三・四・五巻とは対照を為していた。本発表のこうした着目点を通して、社会情勢の変化に応じたアンブロシウスの神学の一貫性を提示したい。 菅原裕文(金沢大学)「総主教ゲルマノスの遺産—可視化された典礼註解」 メッセージ:至聖所とはアプシスを含む主祭壇周辺の空間を指し、司祭のみが立ち入りを許される。中期ビザンティン(9-12世紀)には至聖所内に描かれる主題が十二大祭に限定されるのに対し、後期ビザンティン(13-15世紀)になると、中期には重要度が低く、描かれることが稀だった図像が至聖所に導入され、新しいキリスト伝図像が至聖所の図像プログラムに挿入されるようになる。本発表で議論するのは、副次的なキリスト伝図像が後期ビザンティンの至聖所を導入されたのはなぜか、複雑なプログラムはどのように解釈できるのかという問題である。  コンスタンティノポリス総主教ゲルマノス(715-730年)は当時まで主流だったアレクサンドリア学派の神秘的なアプローチにアンティオキア学派の歴史的アプローチを付加し、ビザンティン典礼を確立した。しかし、ゲルマノス以後、中期ビザンティン聖堂の至聖所では聖母子像や「受胎告知」が主流をなし、受難・死・復活に関する図像が至聖所に入り込む余地はなかった。  後期になると、至聖所にキリストの受難・死・復活に関する説話図像、つまり歴史性を帯びた図像が挿入され、キリストの祭司性を強調した図像も散見できるようになる。後期の至聖所に入り込んできたキリスト伝図像は典礼の歴史性とキリストの祭司性を図解するアンティオキア的要素と解される。ここにゲルマノスの遺産は視覚的にも結実し、目で見るテオリア、ヒストリアとして完成したのである。

第151回教父研究会のご案内

第151回教父研究会は、2015年3月28日(土)14時から18時まで、上智大学四ツ谷キャンパス12号館301号室(前回と会場が異なっております。ご注意ください)において開かれます(キャンパスマップ)。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 この件に関するお問い合わせは、教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp) 土橋茂樹(中央大学)「観相と受肉―ニュッサのグレゴリオスにおけるプラトン主義的伝統の変容」 メッセージ:人間本性の完成を「神に似たものになること」(ὁμοίωσις θεῷ)とみなすプラトン主義的な伝統は、「洞窟の比喩」という極めてよく知られたイメージと相まって、ヘレニズム期以降の哲学者ばかりでなく、ギリシア教父たちにも深い影響を与えた。洞窟から真実在へ、すなわち可感的世界から可知的世界へと上昇することによって人間は「神に似たものになる」とみなすことができる以上、プラトンに由来するこの二つの主題は常に相互補完的な関係にあると言える。とりわけ、「魂の浄化」を「神に似ること」とみなす『パイドン』に見られる主張が、洞窟に象徴される物質性(肉体性)からの脱却というモチーフと一致することは確かである。やがてこれら二つの主題は、道徳的浄化と人間の自然本性の回復という文脈で、フィロン、オリゲネス、プロティノス、バシレイオスたちによって継承され、プラトン主義的な伝統を形成していく。しかし、ニュッサのグレゴリオスにおけるこうした伝統の書き換えによって、問題の力点は明らかに変容したように思われる。 本発表では、受肉したイエスの「へりくだり」の徳を模倣すること、いわゆるimitatio Christiによって「神に似たものになる」というニュッサのグレゴリオスの主張を取り上げ、人間が「徳を行うことによって神に似たものになる」という伝統的な解釈にまったく新しいキリスト教的意味変容が加えられたこと、さらには、肉体からの脱却に対して、霊的肉体への立ち戻りという形で洞窟帰還のまったく新しいキリスト教的書き換えがもたらされたことを明らかにしたい。

第150回教父研究会のご案内

第150回教父研究会は、2014年12月27日(土)14時から18時まで、上智大学紀尾井ビル112号室(地図向かって右端の13番の建物になります)において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 この件に関するお問い合わせは、教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp) 小山貴広(名古屋大学)「「感覚の深い洞窟」──アウグスティヌス主義者としての十字架のヨハネ」 メッセージ:十字架のヨハネはアビラのテレジアと並ぶスペイン神秘主義を代表する人物の一人である。ヨハネの著作は、内容としては否定神学や恋愛神秘主義など様々な要素が混在しており、形式としては自作の詩の註解という特異なものである。そのためヨハネの思想の影響源に関して様々な推測が行われており、これまでテレジアを始めとして、教父、ドイツ神秘主義、トミズム、人文主義、果てはユダヤ、イスラームの神秘主義などが挙げられてきた。本発表はヨハネがアウグスティヌス主義者であったことを示すことを目的とする。具体的にはヨハネの詩「愛の生ける炎」の詩句「感覚の深い洞窟 (las profundas cavernas del sentido)」とその註解に着目することにより、(1) ヨハネが魂の神的な部分を洞窟としてイメージしており、この洞窟が「記憶の洞窟」としての側面を持つこと、(2) ヨハネの記憶論がアウグスティヌス(『告白』、『三位一体論』)の記憶論と語彙の上でも思想の上でも類似していること、(3) アウグスティヌスの記憶からタウラーの「深淵 (abgrúnde = abyssus)」などを経てヨハネの洞窟に至る、魂の神的な部分の系譜が存在すること、を順に見ていきたい。本発表を通してヨハネの詩句をキリスト教思想史の厚みを伴ったものとして提示できればと願っている。 波多野瞭(東京大学)「沈黙と恩寵:トマス・アクィナスにおける探求と教化(仮題)」 メッセージ:トマス・アクィナスは晩年、ある神秘的経験の後に一切の著述活動を放棄した。本稿ではトマスの恩寵論を基本的な道筋としながら、この「沈黙」がトマスの知的探求及び教化の営みにおいて持つことになった射程を明らかにしてゆく。 トマスの雄弁と沈黙は矛盾しあうものでなく、むしろ後者は前者の完成の形態である。トマスの神学はそもそも神の把握不可能性に裏打ちされるため、沈黙は理性の失敗の証ではありえない。むしろそれは、語るべきことが全く残されていないという事態の否定的な表現であり、トマスを理性から解放し神へと結びつけた「成聖の恩寵」の痕跡である。 このような沈黙により、トマスが他者の教化を中止したのは確かである。しかし沈黙は語りと類を違えるのだから、伝達力を持たないということで沈黙に悪性を想定することはできない。さらに、著述による教化が現世における人間集団の秩序を構成する「無償の恩寵」である一方、トマス個人を神へと直接結びつける「成聖の恩寵」の賜物とされうる沈黙は、より高度の善を体現した「ふさわしい」ものとも考えられるのである。 とはいえ、トマスの沈黙は単に個人のものにとどまらない。雄弁な神学者の沈黙は特異な出来事として我々の推論的理性を賦活し、沈黙にまで至る知的営みを追体験させることになるだろう。それゆえトマスの沈黙は、彼の雄弁とともに特異な形式において善を伝達し、終局的には我々を直接的に神へと秩序づける、そのような恩寵の痕跡なのだと言えよう。

第149回教父研究会のご案内

第149回教父研究会例会は、2014年9月7日(日)15時から18時まで、中央大学駿河台記念館 330教室(3F)において開かれます。今例会は、土橋茂樹先生の研究室との共催により、ブロンウェン・ニール博士を招聘した講演会を予定しております。皆様のご参加を心よりお待ち申しあげております。 講演題目 シュネシオスと古代末期における夢解釈:テオーシスとしての夢見 発表者 ブロンウェン・ニール博士(オーストラリア・カトリック大学) 講演概要 キュレネのシュネシオスは、5世紀初頭、アレキサンドリアでヒュパティアに学んだ新プラトン主義者でありながら、後に(意に反して)司教となった人物です。新プラトン主義とキリスト教という二つの世界観の狭間で、彼は自らの「夢解釈」を通して独自の理論を展開していきます。それが今回のテーマとなる「神化(テオーシス)としての夢見」です。本邦ではほとんど知られていないギリシア教父シュネシオスについて体系的な話を聴くことのできる絶好の機会であるだけでなく、アリストテレス以来、ヘレニズム期を通じて数多く説かれた「夢」解釈 (de insomuniis) についても実に興味深い話を聴くことができると思います。 なお当日の講演は英語で行われますが、数センテンスごとにその都度日本語に翻訳する完全通訳付きです。予定としては、60分ほどの講演の後、休憩 (15分)をはさんで、特定質問(土橋)、一般質疑応答、その後ケイタリングでのティーブレイクでリラックスしつつ、ニール先生を囲んでの自由歓談という形になります。できるだけ多くの方々の御来聴をお待ちしております。 主催 平成26年度 科学研究費補助金 基盤研究(C)(研究代表者 土橋茂樹)共催 教父研究会 この件に関するお問い合わせは、教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)

第148回教父研究会のご案内

第148回教父研究会は、2014年6月14日(土)14時から18時まで、上智大学12号館301号室において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。研究会にさきだって、13時30分から14時まで、同所にて総会が開かれます。仔細については、後日会員の皆さままでご連絡を差しあげます。 この件に関するお問い合わせは、教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp) 後藤里菜(東京大学)「中世キリスト教世界―与えられる「実際的な叫び」をめぐって」 要旨: 中世キリスト教世界で聖なる意味を帯びた「叫び」と言えば、出エジプト記で主がモーセに述べる「なぜ私に向かって叫ぶのか Quid clamas ad me? (Exodus 14:15)」における叫びである。神の耳にのみ届くそのような「心の叫び」はアウグスティヌスからジェラルド・オブ・ウェールズ、ヤコブス・デ・ウォラギネらによって、繰り返し述べられてきた。それでは、他の人間の耳にも聞こえる、大きな音量を伴う「実際的な叫び」にはどのような意味がこめられてきたのだろうか。  聖人伝やエクセンプラ集、奇跡譚等を紐解いてみると、「実際的な叫び」の中でも「意味のわからない(動物的な)叫び」は狂人、罪人、悪魔、地獄・煉獄など「悪しきもの」との結びつきが強かったことが明らかである。一方、「意味のわかる叫び」に関しては、子供や女性など力なき者が真実を述べる場合にしばしば現れる。  以上のような傾向は中世の間じゅう変わらない一方で、12世紀後半以降その数を増す聖女伝において、与えられる「実際的な叫び」に新たな意味づけがされているように思われる。その叫びゆえ時に悪魔憑きとみなされながらも、最終的には「聖なる」女性として語られえたのは如何にしてか。従来個別的に扱われることの多かった聖女伝を「実際的な叫び」という文脈から捉え直してみたい。ワニーのマリやクリスティーナ・ミラビリス、フォリーニョのアンジェラ、リミニのキアラらを扱う。 平野和歌子(京都大学)「三位一体における御父と御子の等しさ―アウグスティヌス『マクシミヌス批判』にもとづいて―」 要旨:アウグスティヌスは、427年頃にアリウス派のマクシミヌスと公開討論を行った後、自分の見解を十分に示せなかったとして『アリウス派の司教マクシミヌス批判 (Contra Maximinum haereticum Arianorum episcopum libri duo)』を著した。この公開討論でアウグスティヌスとマクシミヌスが主要に対立したのは、御父と御子が実体について等しいかどうかであった。アウグスティヌスは聖書の正統的な解釈を示しながら御父と御子とが等しいことを論証し、さらにイエス・キリストが御父と御子との関係において適切に位置づけられるべきだと主張している。  アウグスティヌスは、この公開討論の際だけでなく『三位一体論 (De trinitate)』でもアリウス派を批判している。『三位一体論』の中でも特にアリウス派と関連する第七巻までの執筆時期は、公開討論よりも十年ほど前だと考えられる。それゆえ、『三位一体論』と『マクシミヌス批判』との間では御父と御子が等しいという見解に揺らぎはないが、『マクシミヌス批判』でより深まった議論も展開されている。例えば『三位一体論』では御父と御子の等しさについて「実体」や「関係」という概念を使用した説明のみにとどまっているようだが、『マクシミヌス批判』では御父と御子の等しさを主張することの救済論的意義が意識されている。  そこで本発表では、アウグスティヌスの『マクシミヌス批判』を見ることで、御父と御子の等しさについて検討し、その等しさの理解の上で、イエス・キリストが救済論において果たす役割を明らかにする。

2016 JSPS seminar

All the information about the 2016 JSPS seminar is available from SEMINAR ARCHIVES: Seminars 2010-2016. For questions and enquiries, contact us: Hidemi Takahashi, JSPS Secretary General Division of Area Studies, Graduate School of Arts and Sciences, The University of Tokyo Komaba 3-8-1, Meguro Tokyo 1538902 Japan Email: takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp

第147回教父研究会のご案内

第147回教父研究会は、2014年3月29日(土)(14時0分-18時00分)に、上智大学12号館301号室 (土曜日は東門が閉門しておりますので、正門からお入りください)において、加藤武先生をお招きした講演会を予定しております。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 この件に関するお問い合わせは教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp) 加藤武(立教大学名誉教授)「Tempus et Adverbum temporale」 講演者からのメッセージ:sero とはなにか。この問いは、いつごろからか、脳裏に去来する問いでした。Pierre Courcelles の sero をめぐる研究は文学史的な視点に立つ記念塔です。sero の含意のゆたかさに目をそばだてます。でも sero とはなにか。sero te amavi という文において sero と amavi は互いにどういう関係にあるのだろうか。これまで Augustinus の時間論といえば、Confessiones, XI が脚光をあびているように思われるのですが、それ以外の箇所ではどうか。sero は時間副詞です。文法学において時間副詞はどういう位置を占めるのか。sero te amavi の文法学的な視点に関心をよせるようになりました。探求の巡礼は、はじまったばかりです。みなさまのご教示をいただきたく存じます。ご批判の矢を放つてください。 講演構成 第一章 TempusーDionysius Thrax における:ストア派における Tempus を Dionysius Thrax の断章において見る。  第二章 Adverbum temporale 第一節 Augustinusにおける:Sero te amavi (Conf. XXVII, 38) における Adverbum temporale の役割を見る。 第二節 Edgar Allan Poe における:Poe の Nevermore(大鴉)における Adverbum temporale の役割を見る。

146th JSPS seminar

146th JSPS seminar will be held on 14 December 2013, 1:30 pm to 6:30 pm at Room 201, Bild. 12, Sophia University. Four presenters concentrate on the symposium theme “Darkness” and will deliver their papers. Masaki Oomori (Nanzan University), “Darkness—as the place of divine manifestation.” Wataru Hakamada (University of Tokyo), “Into the darkness—Pseudo-Dionysius Areopagita’s thought of the darkness.” Misa Shimizu (Waseda University), “Encounter with God in the darkness and the light—‘Jacobs Ladder’ and ‘Burning bush and Moses’ in Parecclesion of Chora Monastery, Istanbul.” Koutaro Hiramatsu (Sophia University), “Pietism in Mediaeval Jewish Thought—the understanding of God in the Ashkenazi Hasidic.”