第163回教父研究会のご案内

第163回教父研究会は、2018年3月3日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館1階メディアラボ1において開かれます。 神門しのぶ(清泉女学院短期大学)「アウグスティヌス『教えの手ほどき』研究の魅力」 メッセージ:従来、教育学領域でアウグスティヌスと言えば『教師論』(389) が読まれることのみ多かったが、この書は人が学ぶ時の認識のしくみを問うているため自己教育の要素が強い。また、人間の教師は何も教えられないという結論も相俟って、『教師論』を主たる考察対象とした場合に見えてくるものは消極的な教育理論である。一方、司教叙階後の著作『教えの手ほどき』(c. 400) は、彼が改宗者に教理を教える務め、すなわち他者教育が論究の素材になっている。ならば、二つの著作を併せて読むことで、アウグスティヌスの教育思想は初めて、〈教える〉と〈学ぶ〉の両側面を含むものとして見えてくるのではないか。そのような着想から拙論『アウグスティヌスの教育の概念』(2013) では、すでに価値観を共有している相手を教えるという、比較的苦労の少ない教師時代を経たのち、まだ価値観を共有できてきない相手を教えるという、より困難な教育活動に携わったアウグスティヌスの歩みに焦点を当てた。発表の前半ではその概要を紹介したい。後半では、発表者がその後『教えの手ほどき』をどのように読み進めているかについて二点報告させていただく。一点目は、この書の7節でアウグスティヌスがキリスト教的愛の概念の卓越性を、当時の一般教養であったところの友愛概念を下敷きにして説く様子を考察した成果の報告である(「P. アドの古代哲学解釈を通して読むアウグスティヌス『教えの手ほどき』」カトリック教育研究第34号、2017年)。二点目はこれから着手する課題の披歴にとどまるが、後続の8節でアウグスティヌスは隣人概念を取り上げることで新約聖書と旧約聖書の関わりを述べようとしているため、この箇所について問いの立て方や検討方法に関する示唆を得られればと思う。 林皓一(慶應義塾大学)「4世紀後半ローマ帝国西方における「信条」について-アビラのプリスキリアヌスを手掛かりとして-」 メッセージ:4世紀の教会は、コンスタンティヌス帝の公認を受け地理的にも社会的にも大きく拡がる一方で、神理解についての共通の基準をめぐり混乱に陥った。アリウスの教説に端を発する激論は三位一体論の教義を確立させていくことになるが、この過程においては数々の教会会議が開かれ、信仰を表明する定式化された文章として「信条」が宣言された。この中でも「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」は最も権威あるものとして以後の時代に受け継がれていく。だがもう一つ、古代に起源を持つものとして「使徒信条」がある。現在、どちらの「信条」もキリスト教の共通の基盤であるが、成立当初の状況はどのようであったのだろうか。  本発表は、4世紀後半ローマ帝国西方における「信条」の状況を示すことを目的とする。具体的には、当時の当該地域において、(1) 「信条」としてどのテキストが知られていたのか、(2) それがどのような場面において用いられていたのか、(3) それはいかなる語により指示されていたのか、を諸史料から提示する。もっとも、網羅的な検討を行うのではなく、代表的な史料と通説的見解を紹介した上で、発表者が研究対象としているアビラのプリスキリアヌス(?-385/6) による証言をそこに加えることになる。異端者であるが故に彼の証言は軽視されてきたが、「信条」に対する彼の証言を分析することは、4世紀後半の西方キリスト教への理解を深めるために有益であると考える。

第162回教父研究会のご案内

シンポジウム「愛について──エロース・アモル・カリタス」 開催日時  12月2日(土)13:00–18:00 場所  東京大学駒場キャンパス10号館 301会議室 提題者 山本巍(東京大学名誉教授)「二つの愛-プラトン『饗宴』から-」 宮本久雄(東京純心大学教授)「アウグスティヌス―自己の重さ(pondus)としての愛」 土橋茂樹(中央大学教授)「愛の矢と愛の痛手―オリゲネスとニュッサのグレゴリオス双方の「雅歌」解釈をめぐって―」(仮題) 山本芳久(東京大学准教授)「トマス・アクィナスにおける愛の構造」 提題者持ち時間  1人1時間(発表 40–50分と質疑応答 10–20分) メッセージ  このたび教父研究会は、第162回研究会を「古典教父研究の現代的意義─分裂から相生へ―」を課題とする科研グループ(基盤研究 (B) 研究代表者:宮本久雄)と共催し、如上のテーマでシンポジウムを開催いたします。プラトンからギリシア教父、アウグスティヌス、トマスに至るまで古典的世界からの愛のメッセージを現代に放ちます。  放てば満てり。  皆様の参加をよろしく祈願しております。 宮本久雄

第161回教父研究会のご案内

第161回教父研究会は、2017年9月30日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。 山根息吹(東京大学)「ニュッサのグレゴリオス『その時子自身も』※1における万物回復論──人格の完成と人間本性全体の完成の関わりをめぐって」 メッセージ:  メッセージ:ニュッサのグレゴリオスの万物回復論に関して、グレゴリオスが実体的単一性を有する人間本性全体にロゴスが受肉によって混ざったと考える解釈を根拠にして、終末における人間本性全体の完成を主張していることが複数の先行研究によって注目されている。その一方で、ラドローはこのような普遍的人間本性に基づく救済論が、グレゴリオスによってより多くのテキストで主張されているような自由意志に基づく個人の完成に対する思想とは調和し難いものであるという解釈上の問題を指摘をしている。※2  このような先行研究を受けて本発表では、グレゴリオスが、人間本性全体の完成とキリストの模倣や悪からの浄化という人格の完成の両方に言及しながら、万物の完成へ至る過程を詳細に論じている著作である『その時子自身も』を読み解いていく。その際、先行研究が『その時子自身も』を断片的に引用して、先の結論を導き出していたのに対して、より広い文脈で再解釈することで、グレゴリオスが人間本性全体の完成と人格の完成を万物の完成へ至る救済過程に矛盾なく位置付けていることを明らかにする。さらに、人格の完成の捉え方を新たに検証することで、グレゴリオスが人格の完成を、人間本性全体の完成と対置される個人の問題としてではなく、終末における完成へ向かう他者ないし人間本性全体との関わりのなかに見出していることについて指摘したい。 ※1 『ニュッサの司教グレゴリオスの「その時子自身もすべてを彼に服従させた方に服従するであろう」に対する〔論説〕』(In illud: tunc GNOⅲ/2.3.:ΓΡΗΓΟΡΙΟΥ ΕΠΙΣΚΟΠΟΥ ΝΥΣΣΗΣ ΕΙΣ ΤΟ ΤΟΤΕ ΚΑΙ ΑΥΤΟΣ Ο ΥΙΟΣ ΥΠΟΤΑΓΗΣΕΤΑΙ ΤΩΙ ΥΠΟΤΑΞΑΝΤΙ ΑΥΤΩΙ ΤΑ ΠΑΝΤΑ)を『その時子自身も』と略すこととする。 ※2  Morwenna Ludlow, Universal Salvation: Eschatology in the Thought of Gregory of Nyssa and Karl Rahner, Oxford, 2000, pp. 92–94. 大庭貴宣(日本長老教会・キリスト聖書神学校)「殉教者ユスティノスにおける「神の力」と「聖霊」の理解──『第一弁明』第33章と『対話』第87章を中心に」 メッセージ:  殉教者ユスティノス (100–165) が、どのように「神の力」と「聖霊」を理解したかについて、本発表で考察する。そこで、まず『第一弁明』第33章を取り上げる。この章は、キリストの受肉について記されている。特に、注目すべきは第33章4節の「神の力が処女に臨み、彼女をおおい、処女のまま身ごもらせたのです」と、第33章6節の「そして聖霊が処女に臨んでおおい、交わりを通してではなく、力によって身ごもらせたのです」という記述である。つまり、第33章4節では、マリヤに臨み、おおったのは「神の力」である。けれども、第33章6節では「聖霊」が臨んでおおったとある。そのため、マリヤを身ごもらせたのは、「神の力」とも「聖霊」ともなる。  そこで、ユスティノスにおいて「神の力」と「聖霊」は区別されていたか、あるいは混同されていたかという疑問が生じる。これはユスティノスにおいて、三位一体が確立されていたか、あるいは二位一体であったかに繋がる課題である。さらに聖霊を位格 (persona) として捉えていたかについても検討の必要性がある。  次いで、ユスティノスの「神の力」と「聖霊」の働きを検討するために『対話』第87章を取り上げる。この箇所は、洗礼時、キリストに聖霊が臨んだことについて述べている箇所であるが、リヨンのエイレナイオス (130/140–202) の聖霊理解と比較しつつ、ユスティノスの聖霊理解を浮き彫りにしたい。

第160回教父研究会のご案内

第160回教父研究会は、2017年6月24日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。  今回の研究会においては、2名の発表と総会を予定しています。 寒野康太(ドミニコ会)「教父研究としての『四世紀のアリウス派』──教父学研究史上に再び位置づけることは可能なのか」 メッセージ:  ヴィクトリア朝の文人として、また英国の十九世紀の教会関係者としてジョン=ヘンリー・ニューマン(1801-1890)の名は人口に膾炙しており、また教父たちの存在が彼の英国聖公会の改革運動たるオックスフォード運動において大きな比重を占めていたことも一般的に知られている。しかし、現在の教父研究においてニューマンの名を見ることはほとんどないと言ってよい。 それゆえ次の様な疑問が生じよう。「彼の研究を現代の諸研究のなかに位置づけることになにがしかの意義を見いだすことが出来るだろうか、意義があるとしたら、それはどのような点に見いだし得るのか。」という問いである。拙論においてこのことを探るべく、オックスフォード運動初期の教父研究書「四世紀のアリウス派(The Arians of the Fourth Century, 1833年刊)」を分析し、その歴史的背景と受容を検討することしたい。またこの調査によってまた、神学研究と教父研究の関連性の考察にもなにがしか寄与できればと考えている。 松澤裕樹(大谷大学)「エックハルトの父-子関係理解と存在論──アウグスティヌスとトマス・アクィナスとの比較から」 メッセージ:  アリストテレスの『範疇論』に由来する「実体」と「関係」という二つのカテゴリーによって神が語られるとする思想的伝統は、西方ラテン世界ではアウグスティヌスに端を発し、中世のスコラ哲学へと継承されてきた。トマス・アクィナスと同様に、ドミニコ会士であったエックハルトもまた、この思想的伝統を踏襲し、「父」と「子」を「関係」カテゴリーによって語られる神の名として理解した。  しかし、論理学的に「関係」カテゴリーによって理解された「父」と「子」が果たして「関係」として存在するのかという存在論的問題になると、エックハルトは上記の思想的伝統から脱却し、彼独自の思想を展開し始める。「父」と「子」に関する論理学的理解が成立する前提として、「父」と「子」が「実体」として存在する必然性を説き、両者が「関係」として存在することを否定するアウグスティヌスに対し、エックハルトはそれを肯定し、「関係」を中核とする新たな存在論を展開する。  本発表では、エックハルトの思想に多大な影響を与えた二人の神学者アウグスティヌスとトマス・アクィナスの父-子関係理解を論理学的・存在論的観点から考察し、エックハルトのそれと比較することで、アウグスティヌス以来の思想的伝統から脱却したエックハルト存在論の内実を確認していく。 この件に関するお問い合わせは下記教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻  高橋英海 mail: takahashi[AT]@ask.c.u-tokyo.ac.jp

第159回教父研究会のご案内

第159回教父研究会は、2017年3月11日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1において、大貫隆訳『グノーシスと古代末期の精神』を中心としたシンポジウムとして開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 提題 大貫隆「ハンス・ヨナス『グノーシスと古代末期の精神』によせて」 メッセージ: I  ヨナスを翻訳して最大の発見  ・ 物語(本文)の内部での啓示者と人間の出会いは、本文と読者の出会いと並行している。物語論と解釈学の不可分一体。Jonas:「この啓示は神話の内容である物語そのものの中の一場面として出現する。」 ・ 「知の存在論的不安」。Jonas:「最下位のアイオーンであるソフィアにおいては、プレーローマの頂点からの隔たりが最大であるのに応じて、緊張性と自立性も最大であり、限界の圧力も最大である。その限界が踏み越えられるとき、『認識』は知性の原理から、純粋に情念の原理へ、すなわち、盲目で自力に頼った羨望へと変容する。」 II 最大の疑問 ・ なぜバシリデース派が取り上げられないのか。 ・ 答え:ヨナスはグノーシス=流出論の等式で考えている。「グノーシス」概念が「流出論」に狭小化される。と同時に「流出論」が「グノーシス」と等値とされる点では、グノーシス概念が拡大される。概念の拡大と狭小化が同時に起きている。 III バシリデース派の例外性 Hippolytus「バシリデースは、事物の実体が生成してきたのは流出(プロボレー)によるという見方を完全に避けて、それを怖がっていたからである。」(VII 22, 2-3) IV ただし、バシリデースの「大いなる無知」の待望も「知の存在論的不安」を証明する。 特定質問者 山本巍 メッセージ: 大貫隆氏の発表へのコメント 1. 啓示の物語であるグノーシス文書を読む経験が、自分が啓示に照らされる現実になる、とする点で大貫氏とヨナスは一致する。テキストの内(啓示)と外(読者)の相互作用のような言語のメカニズムをもう少し説明して欲しい。知識による人間の救済を説くグノーシスで、その知識はどのような言語の働きで達成できるのか。言葉は実在を何らかの仕方で写す記号系(一が他・多を表現する)で、弱いという点で、ギリシアとユダヤには固有の「言葉への態度」があった(ソクラテスの問答・律法)。これとの対比は有効か。 2. ヨナスはグノーシス=流出説としたが、他方で多様なグノーシスを統一する視点としてハイデガーの実存論を導入した。この実存論と流出説はどのように結びついているか。 3. バシリデースは「光あれ」に見られる、言即事を実現する強い言語にコミットしているように思える。それが流出説を採らない理由の一つだろうか。 4. グノーシス・プロチノス管見:ポリスが崩壊し市民が漠然とした世界に放り出されて個人(孤人)になった古代末期に、グノーシスは知識による自己の救済を、プロチノスは知識による自己の完成を目指した。しかしそれは宗教・哲学の目的になるだろうか。

第158回教父研究会のご案内

第158回教父研究会は、2016年12月17日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館1階メディアラボ2において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 提題 谷隆一郎「神化の道行きと、その内的根拠をめぐって−「キリストの十字架と復活」の働きを愛智=哲学として問い披く−」 メッセージ:  周知のごとくパウロは、「キリストとの霊的出会い」を次のような鮮裂な言葉で語っている。「もはやわたしが生きているのではなく、わたしのうちでキリストが生きている」(ガラテア2,20)と。これは、「わたし・自己」の閉ざされた境域(自我の砦)がいわば「身心脱落」(道元)のように突破され、受肉したロゴス・キリストの働きないし霊(プネウマ)が人間的自然・本性を場とし器として宿り来った姿であろう。ただしかし、そのパウロの言は証聖者マクシモスによれば、自由(自己決定力)の放棄ではなく、意志的(グノーメー的)聴従を意味するものであった(『難問集』1076B)。  そうした姿は、およそわれわれの「キリストとの出会い」と「神化(神的生命への与り)の道行き」との中心的場面を示している。そこにはむろん、多様にして一なる同根源的問題が隠されているのだ。今回の提題では、それらの存在論的ダイナミズムとも言うべき基本的動向を注視しつつ、とりわけ「キリストとの出会いの経験」=「使徒たちにおける生の根底的変容」と、そこに現前する「神的かつ神人的エネルゲイア」に思いを潜めてゆく。  そしてそうした探究にあって、「キリストの受肉・十字架・復活」の全体としての働き(エネルゲイア・プネウマ)は、われわれが「善く意志し、善く為すこと」の可能根拠として、またいわば「意志論の最前線」にあるものとして、その生成・顕現の機微がわれわれ自身のうちに何ほどか問い披かれてゆくことになろう。 特定質問者 袴田玲(日本学術振興会) メッセージ:  言うまでもなく証聖者マクシモスは最大の思想家の一人として東西両キリスト教世界で現在に至るまで尊敬を集める人物であるが、彼が示した宇宙論的拡がりをもつ神化概念や、その身体への肯定的なまなざしは、まさに自らの内でキリストと出会うことを願うヘシュカストたちにとりわけ大きな影響を及ぼした。ヘシュカスムの伝統に即して編まれたと言われる『フィロカリア』においても、収録されている全三十余名の著述家の中で最大の頁数が割り振られており、ヘシュカスムの歴史における証聖者マクシモスの重要性を伺い知ることができる。以上を踏まえ、今回の谷隆一郎先生のご発表に際し、証聖者マクシモスの後代への影響という観点から、いくつかご質問させていただければと願っている。 山本芳久(東京大学) メッセージ:  証聖者マクシモス『難問集』に関して、マクロとミクロの二つの観点から問題提起を行います。マクロな観点としては、『難問集』という著作の全体的な特徴・全体構造について問題提起を行います。ミクロな観点としては、マクスモス神学に関して、二つの論点に焦点を当てながら問題提起をしたいと思います。一つ目の論点は、神的なものが「動かされかつ動かす」という神の受動性を示唆するディオニシウス・アレオパギタの言葉をマクシモスがどのように受容し解釈しているのかを、トマス・アクィナスの解釈と対比しながら浮き彫りにすることです。二つ目の論点としては、キリストの「神人的はたらき」についてのディオニシウスの言葉についてのマクシモスとトマスの解釈の異同を明らかにしたいと思います。こうした仕方で、キリスト教神学の伝統におけるマクシモスの立ち位置を浮き彫りにしつつ、議論のための叩き台を提示します。 田島照久(早稲田大学) メッセージ:  谷先生のご高論が扱われた『難問集』「七 人間と進化―自然・本性の存在論的ダイナミズム」で述べられている次の点に関して、ご教授をいただきたいと思います。  マキシモスは、「わたしのうちでキリストが生きている」というパウロの言葉が意志的聴従を語っているとし、直前に「もはやわたしの意志するようにではなく、あなたの意志するようになしたまえ」(マタ26・39)を引いて、「キリストが父への聴従を我々の模範として示している」と語っているが、「意志的聴従」とは「子となること」(filiatio)と理解できるのかどうか。そうであれば、その直後の言葉「それによってわれわれは・・・似像が原型へと回復するように現に動かされることを欲する」とはどういう事態を語るものなのか。さらに「神的働きと人間的自由・意志」の循環性に関して、「神化という事態の原範型としてのキリスト」の「神人的エネルゲイア」の観点からこの循環性がどのように説明しうるのかということについてさらにご説明いただければ幸です。 例会後に開催される、谷隆一郎訳『証聖者マクシモス『難問集』東方教父の伝統の精華』(知泉書館、2015)および土橋茂樹編著『『フィロカリア』論考集 善美なる神への愛の諸相』(教友社、2016)の出版記念会の参加も受けつけております。出欠のご連絡は、袴田玲 (aaaahkmd[at]hotmail.com) までよろしくお願いいたします。

第157回教父研究会プログラム

第157回教父研究会は、2016年9月24日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。 9月9日から10日まで、サンクトペテルブルク(ロシア)の SUAI (Saint Petersburg State University for Aerospace Instrumentation) において、第10回 APECSS アジア環太平洋初期キリスト教学会研究集会が開催されました。メインテーマは、 Survival of Early Christian Traditions であり、本研究会会員も多数参加しました。9月例会ではそこでの発表の全体の様子を概観するとともにいくつかの個別発表を取り上げ報告し、国際的な教父学研究の現状や今後の進め方などについて共通討議ができればと存じます。ふるってご参加ください。 今回の APECSS 研究集会専用のウェブサイトにおいて、プログラムと発表者のアブストラクトが掲載されておりますので、ご参考になさってください。 基調報告  戸根裕士(同志社大学)「アジア環太平洋初期キリスト教学会(APECSS)の位置づけの試論─第十回大会を振り返って─」  メッセージ:本年2016年のアジア環太平洋初期キリスト教学会にて当学会は十年の節目を迎える。そこでその特徴と方向性を考えるべく、本発表で当学会の設立の経緯やこれまでの学会の内容を整理する。続けて他の国際的な教父並びに初期キリスト教研究の学会と比較したい。そして結論として、教会組織に属さない研究者による学際性の可能性、並びに日本のアウグスティヌス研究の伝統の活用の可能性を指摘したい。 報告 1  袴田玲(日本学術振興会)「グレゴリオス・パラマスにおける知性(ヌース)概念の継承と展開」 報告 2  坂田奈々絵(日本学術振興会)「シュジェールの聖ドニ観─初期キリスト教のサバイバルの視点から」 全体討議

第157回教父研究会のご案内

第157回教父研究会は、2016年9月24日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパスにおいて開かれます。 第157回例会は、APECSS アジア環太平洋初期キリスト教学会研究集会の報告会を開催いたします。 9月9日から10日まで、サンクトペテルブルク(ロシア)の SUAI (Russia State University for Aerospace Instrumentation) にて、第10回 APECSS アジア環太平洋初期キリスト教学会研究集会が開催されます。メインテーマは、 Survival of Early Christian Traditions であり、本研究会会員も多数参加する予定です。9月例会ではそこでの発表のいくつかや全体の様子を報告し、国際的な教父学研究の現状や今後の進め方などについて共通討議ができればと存じます。ふるってご参加ください。 今回の APECSS 研究集会専用のウェブサイトにおいて、プログラムと発表者のアブストラクトが掲載されておりますので、ご参考になさってください。

第156回教父研究会のご案内

第156回教父研究会は、2016年6月25日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム3において開かれます。  今回の研究会においては、2名の発表と総会を予定しています。例年とはプログラムが変化しているので、ご注意ください。 全体プログラム 14:00-15:00 研究発表 1 15:00-15:30 総会 15:30-18:00 研究発表 2 福田淑子(早稲田大学)「「無原罪の宿り」の視覚化」 メッセージ:  「無原罪の宿り」には、教理をめぐるフランシスコ会とドミニコ会の「議論」というコンテクストのもと、図像が神学との補完関係を保ちながら教義としての発展に寄与していった歴史がある。  そもそも人々は自然に「マリアは罪をもたなかった」と信じていたのであり、神学や胎生学に基づく議論はその信心の形成に影響を与えるものではなかった。しかし、マリア崇敬の広がりとともに神の母であるマリアが原罪をもったか否かが問われると、聖書に記述が認められない「無原罪の宿り」には根拠としての神学が大きく関わってくる。そのため伝統的に「無原罪の宿り」の視覚化は困難とされ、主題そのものを図解した図像(以下、「無原罪の宿り」図像)が制作されるまでは他主題を援用しながら表現されていた。その「無原罪の宿り」図像が初めて制作されたのは15世紀後半であり、両修道会の議論が激しく展開された時期にあたる。  本発表では以上の事情を考慮し、なぜ「無原罪の宿り」を視覚化する必要があったのか、「無原罪の宿り」図像は何を目的として制作されたのかを考察の柱として論じる。その際、これまであまり論じられる機会のなかった「無原罪の宿り」が「月を踏み12の星の冠を頂くマリア像」に画一化される以前の「無原罪の宿り」図像をとりあげ、図像解釈における諸問題を指摘しながら教義史における図像と神学の関係、及び図像が担った機能について確認したい。 樋笠勝士(岡山県立大学)「教父哲学における「美」の問題(仮)」

第155回教父研究会のご案内

第155回教父研究会は、2016年3月19日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。 藤原理沙(東京大学)「アウグスティヌスの墓前祭に対する態度」 メッセージ:  アウグスティヌス (354-430) の墓前祭に対する態度を本発表では考察する。キリスト教が入る以前の古代ローマにおいて、墓前祭は祖先の墓に供え物を捧げる機会であるとともに、家族や親しい者たちと墓地で飲食を行う機会でもあった。キリスト教がローマに入って以降、洗礼を受けていわゆる「キリスト教徒」となったローマ市民たちは以前の生活習慣を大きく変えずに、この習慣を維持し続けた。キリスト教特有の殉教者祭儀はそもそもこのような死者祭儀から発したものだと考えられている。しかし、次第に教会は墓前祭での飲食行為について、異議を唱え出す。顕著な例として、アウグスティヌスが挙げられる。  本発表ではアウグスティヌスがこのような異議を唱えた意図を明らかにするために、まず古代ローマでの墓前祭における飲食行為の意義を分析する。続いて、アウグスティヌスがそのような意義をどう評価し、その上でなぜ、またどのような場合の飲食行為に対して異議を唱えていたのかを読み解いていきたい。古代ローマでの墓前祭における飲食行為の意義の分析にはウェルギリウス (BC 70-19)、オウィディウス (BC 40-AD 17)、キケロ (BC 106-43) の著作を主に用いる。アウグスティヌスの意図の考察については、『告白』、『神の国』、『死者たちへの配慮』及び書簡、説教などを用いる。 水落健治 (明治学院大学・東京女子大学)「アウグスティヌスの聖書解釈—『詩編講解』(69-75編)を中心に」 メッセージ:  キリスト教思想家としてのアウグスティヌスが、自らの思想を構築してゆくに際して「聖書解釈」を中心に据えていたことは改めて述べるまでもないであろう。彼の著作の内には、『創世記についてマニ教徒を駁す』(388)、『未完の創世記逐語解』(393)、『ローマ人への手紙講解』(395)、『ガラテア人の手紙講解』(395)、『山上の垂訓について』(393)、『福音書の一致』(400)、『創世記逐語解』(401-414)、『詩編講解』(391-418)、『ヨハネ福音書講解』(417)、『ヨハネの手紙講解』(417)といった多くの注解書があるし、それらの内、「創世記」の三つの注解、および『詩編講解』はそれぞれ25年の長きにわたって執筆されている。また彼の聖書解釈の方法論については『キリスト教の教え』(397; 427)においてその詳細が展開されている。  これまでアウグスティヌスの聖書解釈については、彼が「アンブロシウスの比喩的・霊的聖書解釈(aenigmate…spiritaliter)を聴いてマニ教の誤謬から解放された」という記述(『告白』5.14.24)等を典拠として「アウグスティヌスの聖書解釈は比喩的解釈である」と理解されることが多かった。だが上記の注解書の個々のテキストを詳細に検討してゆくと事態はそれほど単純ではないことが分かる。彼の聖書解釈は、アレクサンドリアのフィロンの比喩的聖書解釈などとは異なり、むしろ「字義的」であり「文献学的」であるとすら思われるのである。  今回の発表では、教文館版「アウグスティヌス著作集」の『詩編注解(3)』の内、発表者が翻訳を担当した箇所(69-75編)を中心に、アウグスティヌスの聖書解釈の方法を詩編のテキストに即して考察してみたい。その際特に問題となるのが、(1)詩編が旧約の歴史とは関わりの薄い「諸書」に属するということ、および(2)『詩編講解』が読まれることを前提に書かれた註解書ではなく、具体的な聴衆を念頭に置いて語られた「講解説教」であるという点である(cf.『キリスト教の教え』第4巻の「伝達論」)。