第171回教父研究会例会のご案内

第171回教父研究会は 2020年12月 5日(土)オンライン(Zoom)にて開催することとなりました。例会は、後世における教父の受容をテーマに3名のご発表を予定しております。また例会の前には総会も開催されます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 日時:2020年12月5日(土) 14:00-15:00   総会 15:00-18:30   発表・全体討論 ミーティングURL・ID・パスコードにつきましては、メール、あるいはお手紙にて会員の皆様にお知らせしております。万一届いていない場合は、お手数ですが事務局までお問い合わせください。 発表題目 1:神学者の言葉の伝統―ナジアンゾスのグレゴリオスとビザンツの教養 発表者:窪信一(東京大学) メッセージ: ホ・テオロゴス(神学者)の称号で呼ばれるナジアンゾスのグレゴリオスの東方における権威と重要性については特に説明の必要はないだろう。しかし彼にその死後において人々の尊敬を集める媒体となった彼が書き残したもの、彼のギリシア語については、その果たした役割と伝統の歴史が詳らかになっているようには思われない。その著作がいかに深くビザンツのギリシア語を使うキリスト教徒の読書生活に根付いていたかは、浩瀚な写本の伝承はもとより、幾人もの手による注解、さらには古典作家への注釈や修辞学の教材や辞典や単語帳の類に頻繁に表れる用例、そしてビザンツの知識人たちが自分たちの著述で時には名前を挙げて引用し、時には全く典拠を明示せず引喩する神学者の言葉が、示唆している。 グレゴリオスは、哲学と修辞学、異教の学問伝統の中心地であるアテナイに長期間の留学経験を持ち、その文業で教養あるキリスト教徒の在り方を体現し、後世のビザンツ人にとってその理想の模範であり続けた。そして異教徒(ヘレネス)とキリスト教徒の学知の関係が問題となる時に彼の言葉がどのように働いたか、本報告では14世紀の神学論争におけるそのいくつかの事例を通して、古典と教父、二つの層からなるビザンツの教養の在り方に迫っていきたい。 発表題目 2:「停思快(delectatio morosa)」について:夢想と創造をめぐって近代文学がキリスト教道徳神学から学びえたこと 発表者:森元庸介(東京大学) メッセージ: 中世スコラ学が作りし出した概念のひとつに「停思快(delectatio morosa)」というものがあります。これは、してはならないとされる行為——容易に予想されるかもしれませんが、神学者たちが事例として好んで取り上げたのは不倫的な性行為です——について夢想することから得られる快のことを指したものですが、標準的な回答によれば、そうした夢想から得られる快の罪の程度は、その夢想が対象とする行為から得られる快の罪の程度と等しいとされました(たとえば、トマス『神学大全』第2部第1篇第74問)。 快、さらには夢想から得られる快を裁くということ自体、人類学的な見地からして少なからず興味深いことではありますが、夢想は、そのように裁きの対象として抑圧的に捉えられることをつうじて、逆説的にも独特かつ固有のリアリティを付与されたと考えることもできるように思われます。この点を考えるうえできわめて示唆的な人物として、二〇世紀フランス文学のうちでもきわめつきに奇妙な作家ピエール・クロソウスキーです。神学を学び、若い時期に修道生活を送っていたクロソウスキーは、上述した「停思快」を、かのマルキ・ド・サドの文学的営為を解釈するための鍵として用い、生涯の多くを監獄で過ごしたこの作家にとって、ただひとつ残された自由としての夢想が、創造と現実との奇妙な癒合を可能にしたと論じます。近世の道徳神学における議論の展開も視野に収めつつ、最終的にはこのクロソウスキーの主張を吟味することを目標とし、みなさまからのご意見を仰げれば幸いです。 発表題目 3:近世イングランド国教会における聖ヒエロニムスと主教制の問題 発表者:李東宣(東京大学) メッセージ: 英国史領域では近年、宗教改革前後の信仰や学問の在り方の連続性が強調されており、それに伴って、これまでローマ・カトリック教会と繋げられてきた教父を宗教改革後のイングランド国教会がどのように受容したかという主題も注目を集めている。本稿では、初期教父の一人、聖ヒエロニムスの手による『テトスへの手紙註釈』と『エヴァグリウスへの手紙』を近世イングランド国教会聖職者がどのように解釈したのかを明らかにする。当該著作は、主教制(=司教制[episcopacy])の存在を否定する初期教父の証言として知られており、カルヴァンなど初期宗教改革者はこれをローマ・カトリックの司教制を攻撃する強力な根拠として用いた。イングランドはプロテスタント国家になったものの、主教制をそのまま維持し、イングランドの長老派は引き続きこれらを用いてイングランド国教会の主教制を批判した。その批判に応える過程で、3つの異なる種類のヒエロニムス解釈が生まれた。 本報告は、これら相異なるヒエロニムス解釈の記述にとどまるのではなく、その解釈の仕方自体が、国教会聖職者の主教制擁護の程度を示す有効な尺度であると提示する。先行研究では、1580年代以降、主教制擁護が単線的に進展・深化するとされているが、膨大な近世の著作からそのような発展史観に当てはまる箇所を恣意的に抜粋しているに過ぎない。対して、本報告は、ヒエロニムス解釈を参照点にすることで、各論者における主教制擁護をより正当に比較できると主張する。   この件に関するお問い合わせは下記教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻・高橋英海 E-mail: secty.jsps[at]gmail.com

延期:第171回教父研究会例会のご案内

直前のご連絡となり大変恐縮ですが、3月28日に予定していた第171回教父研究会例会について、延期することにいたしました。 今後の予定については、再度調整のうえ改めてご案内をいたします。 ==================== 第171回教父研究会は、2020年 3月28日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス10号館3階301号室において開かれます。通例の会場と異なりますのでご注意ください。 発表題目 1:神学者の言葉の伝統―ナジアンゾスのグレゴリオスとビザンツの教養 発表者:発表者:窪信一(東京大学) メッセージ: ホ・テオロゴス(神学者)の称号で呼ばれるナジアンゾスのグレゴリオスの東方における権威と重要性については特に説明の必要はないだろう。しかし彼にその死後において人々の尊敬を集める媒体となった彼が書き残したもの、彼のギリシア語については、その果たした役割と伝統の歴史が詳らかになっているようには思われない。その著作がいかに深くビザンツのギリシア語を使うキリスト教徒の読書生活に根付いていたかは、浩瀚な写本の伝承はもとより、幾人もの手による注解、さらには古典作家への注釈や修辞学の教材や辞典や単語帳の類に頻繁に表れる用例、そしてビザンツの知識人たちが自分たちの著述で時には名前を挙げて引用し、時には全く典拠を明示せず引喩する神学者の言葉が、示唆している。 グレゴリオスは、哲学と修辞学、異教の学問伝統の中心地であるアテナイに長期間の留学経験を持ち、その文業で教養あるキリスト教徒の在り方を体現し、後世のビザンツ人にとってその理想の模範であり続けた。そして異教徒(ヘレネス)とキリスト教徒の学知の関係が問題となる時に彼の言葉がどのように働いたか、本報告では14世紀の神学論争におけるそのいくつかの事例を通して、古典と教父、二つの層からなるビザンツの教養の在り方に迫っていきたい 発表題目 2:停思快(delectatio morosa)について 現実と想像の関係について近現代の思想が教父文学に学んだこと 発表者:森元庸介(東京大学) (発表要旨は追ってお送りします。) この件に関するお問い合わせは下記教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻・高橋英海 E-mail: takahashi[at]ask.c.u-tokyo.ac.jp

JSPS Special Lecture

JSPS Special Lecture will be given by Professor Susanna Elm (Sidney H. Ehrman Professor of European History, Department of History, College of Letters & Science, University of California, Berkeley) at Komaba Campus, The University of Tokyo, on 3 March 2020. Presenter: Prof. Susanna Elm (University of California, Berkeley) Title: “Books, Bodies, Histories: Augustine of Hippo on the Extraordinary (City of God XVI.8)” Abstract: In Book 16 of the City of God Augustine of Hippo discusses human bodies described by what he calls “too curious histories” as monstrous; such bodies, he tells us, are also depicted in mosaics on the grand esplanade in Carthage. Augustine here refers to Pliny the Elder’s …

第170回教父研究会例会のご案内

第170回教父研究会は、2019年12月21日(土)14時30分から、東京大学駒場キャンパス18号館1階メディアラボ2において開かれます。 発表者: Dr. Peter Steiger (Chaminade University of Honolulu) 発表題目: The Formation of the Friends of God: Abraham and Job as Model Teachers in the Writings of Didymus the Blind 紹介者メッセージ: 4世紀のキリスト教神学者ディデュモスについての研究は、これまでの教父研究において、必ずしもメジャーなものではなかったかも知れないが、近年その翻訳や研究書の出版は増えてきている。ディデュモスの、ヒエロニムスやエウァグリオス、アクイレイアのルフィヌスらとの交流は、古代末期の教父思想の実態を明らかにする上で注目に値するものであるし、オリゲネスに由来する思想がアンブロシウス、アウグスティヌスらに与えた影響を分析する研究においても、ディデュモスの神学、聖書解釈についての分析は欠かせないものとなりつつある。盲目であったという彼の特性も、彼の神学の形成を考察する上で、あるいはその言説の機微を知る上で興味深い。発表者のスタイガー氏は、アメリカ・カトリック大学において、現NAPS(北アメリカ教父学会)会長であるロビン・ダーリン・ヤング氏のもとで学び、ヤング氏の助言をきっかけにディデュモスの研究に入った。以来、20年以上その研究に取り組み、現在は、ディデュモスによる「ヨブ記」注解の英訳を出版に向けて進めている。スタイガー氏はまた、日本において教父研究がどのように育まれ、進展しつつあるかについても関心を寄せており、それが今回この研究会で発表したいという動機となっている。当日ご出席くださる皆さんからも多くを学びたいという意欲、日米の研究協力を促進したいという意欲も語っておられるので、年末のご多忙中と存じますが、ぜひ皆様にご出席いただけましたら幸いです。(佐藤真基子) この件に関するお問い合わせは下記教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻・高橋英海研究室 E-mail: secty.jsps[at]gmail.com

第169回教父研究会のご案内

第169回教父研究会は、2019年9月29日(日)14時30分から、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。次回第169回例会は、今年度末で日本を去られるリアナ・トルファシュ先生をお迎えして開催することとなりました。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 発表者: リアナ・トルファシュ 発表題目: 『ディオニュシオス文書』における神の超越性と内在性の思想について 発表者からのメッセージ:  神と被造界との関係は、キリスト教の教義において核心的な問題の一つである。一方では、神はあらゆるものを完全に超越しており、いかなるものとも関わりを持たないという。また他方では、神は内在的であり、あらゆるものの内に現存している。なぜなら、神が直接に分有されていないならば、いかなるものも存在することさえできず、また神の顕現や、神の直接的な働き、摂理といったものも、この被造界にあり得ないからである。このように、キリスト教の教義においては、神の全くの超越性と全くの内在性とを、同時に認めなければならない。こうした二重強調を認めるか否かによって危うくなるのは、単なる「神概念」だけではない。ものが現に、単に存在するということをいかに説明するかや、人間が神化に到達し得ることの正当性がかかっている。こうした二つの根本的問題に対して肯定的な回答をもたらすことができるのは、神が「世界の上にある」と同時に「世界の内にもある」、ということを認めることだけである。東方キリスト教の伝統において、上記のような認識は教父たちの著作内で、既に十分明確なものとなっている。だが、神の超越性と内在性をめぐる神学上の決定的な説明および表現は、14世紀にグレゴリオス・パラマス(1296-1359)によって提示された。しかしそれ以前にも、『ディオニュシオス文書』──5世紀末頃に知られ、キリスト教世界全体に対し何世紀にもわたり大きな影響を与えてきた書──が、この問題について偉大な教えを残している。  本発表では、「神的光線」という概念──ディオニュシオスの思想において極めて重要な役割を果たす概念──を浮き彫りにしながら、同書に見られる神の超越性と内在性についての、様々な表現の分析を試みたい。さらに、こうした分析に基づき、超越性と内在性の均衡の重要性を明らかにしたい。なぜならば、キリスト教研究の分野においては、こうした主題を扱った文献がきわめて少ないことに加え、神概念が扱われている際、超越性が過剰に強調されているのに対し内在性が軽視され、あるいは完全に無視されてしまっているような傾向が見られるからである。 この件に関するお問い合わせは、下記の教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻  高橋英海(takahashi[at]ask.c.u-tokyo.ac.jp)

第168回教父研究会のご案内

第168回教父研究会は、2019年6月29日(土)16時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館1階メディアラボ2において開かれます。また例会の前には総会(15時から16時の予定)も開催されます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 発表者: 砂田恭佑(東京大学) 発表題目: 体罰否定は教育の放棄か?──ヨアンネス・クリュソストモスの『箴言』13章24節釈義とその背景 発表者からのメッセージ:  教父研究における聖書解釈という分野の重要性はつとに指摘されている。ところでヨアンネス・クリュソストモス (347?–407) は浩瀚な聖書釈義講話を残し東方教会でもひろく崇敬されている教父の一人だが、20世紀の研究潮流のなかでは独自の思想を持たない説教師としてしばしば看過されてきた。これに対し、彼の著作のうち、2003年に初めて校訂本が上梓された『箴言註解』の一節は注目すべき要素をいくつか含んでいる。「杖を控える者は自身の子を憎む。しかし〔子を〕愛する者は注意深く懲らしめる」という13章24節の句は、『箴言』特有の「体罰奨励章句」の一つであり、教育思想史の観点からも論じられているものだが、クリュソストモスはこの聖書本文は《体罰を奨励していない》という見解を示す。これは当節を教育上必要な体罰の許可として、あるいは救済論的寓意として、あるいは修道規則の根拠として解する同時代人の理解とは際立って異なるものであった。本発表ではこの点に注目し、クリュソストモスによる聖書解釈の手続きとその思想的背景を分析することを試みた。これにより導き出される結論は以下の通りである。  1. 当節理解における手続きは「単純にではなく」というキーワードを含む「アンティオキア的」釈義法(≠字義的、歴史的)を活用したものである。  2. その体罰反対論は短絡的・事なかれ主義的なものではなく、むしろクリュソストモス自身の人間観「家庭教育」観と調和する形で生の指針としての聖書典拠を基礎づけようとしたものである。 この件に関するお問い合わせは下記教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻  高橋英海(takahashi[at]ask.c.u-tokyo.ac.jp)

第167回教父研究会のご案内

第167回教父研究会は、2019年3月16日(土)14時から17時30分まで、立教大学太刀川記念館三階カンファレンスルームにおいて開かれます。  涙をテーマとした若手研究者によるミニシンポジウム「東西キリスト教思想における涙の位置づけ」となる予定です。 発表者(発表順) 坂田奈々絵(清泉女子大学) 袴田玲(岡山大学) 松村康平(東京大学) 概要説明: 本ミニシンポジウムは「涙」を主軸とし、教父思想から近世に至る涙の扱いを明らかにすることで、キリスト教思想における身体―精神の接続についてなんらかの考察を加えることを目的とする。  「涙」は主に修道者らの実践において重要な位置づけが与えられてきた。そもそもは砂漠の師父たち、特にポイメンらによって涙を積極的に流すことが奨励され、その後もエヴァグリオスやクリマコス、涙のシメオンとも呼ばれる新神学者シメオンによって神学的意味付けが与えられた。またシオランが「中世は涙で飽和している」と書いたように、涙は東方キリスト教に限らず、西洋中近世にあっても重要視された。そこで考察の対象とするのが、このような涙を流すという実践にはどのような思想的背景があるのか、あるいは涙を流すということの意味付けはいかなるものかという点である。しばしば涙は神からの賜物、聖霊の働きの目に見える象徴として考えられ、ときには涙を流すということの形式的強調のあまり、落涙そのものが優先されることすらあった。では果たして、涙とは一体なんなのだろうか。特に修道制において目的とされる人間の神化ないし救いに際して、この涙はどのような位置付けにあるものなのだろうか。  そこでまず坂田は東西修道制における涙の比較という観点から、カッシアヌスの『霊的談話集』に注目する。カッシアヌスはエヴァグリオスに師事し東方教父からの強い影響を受け、様々な議論の対象になりつつも、その著作はベネディクトゥスの『戒律』にも多大な影響を与えた。この意味で、東方における修道的実践を西方に伝達した人物として位置づけることができるだろう。特に本発表ではカッシアヌスの『霊的談話集』を基にし、その実践の目的とそこにおける涙の位置づけを中心に考察を行う。  次に袴田は、新神学者シメオンやグレゴリオス・パラマスのテクストを中心に、ビザンツ帝国時代中期から後期にかけてのヘシュカスムにおける涙の捉えられ方について分析する。このことは、涙、熱、光、甘さなど、祈りの中で生じる霊的=身体的経験についてのヘシュカストたちの理解を明らかにし、また、その際に彼らが大いに依拠する大(擬)マカリオスらシリアの伝統が当時のヘシュカスムの思想においていかに受容・継承・変容しているかという点について考察することにもなるだろう。  松村は、西洋近世キリスト教思想における涙という観点から、イグナチオ・デ・ロヨラの涙の体験について触れたい。イグナチオの『霊的日記』は涙の記録ともいうべきもので、そこには日々彼が流した涙とともにその神秘体験に関する記述が残され、神との一致のプロセスが描写されている。本発表では、イグナチオの涙とその特徴的な知覚的表現とを追うことで、彼の神との一致の体験の特徴について考察する。  以上の発表を踏まえ、コメンテーターとの対話の後、会場にお越しの皆様とも意見交換を行い、涙に関する多角的考察を可能とする視点を得ることができたら幸いである。 コメンテーター:鶴岡賀雄(南山大学) この件に関するお問い合わせは下記教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻  高橋英海(takahashi[at]ask.c.u-tokyo.ac.jp)

第166回教父研究会のご案内

第166回教父研究会は、2018年12月8日(土)14時から17時まで、清泉女子大学(東京都品川区東五反田3−16−21: https://www.seisen-u.ac.jp/access/index.php) 230教室(2号館 3階)において、アリストテレスやプラトンの知識論だけでなく、キリスト教の教父哲学や現代の物理学まで視野に入れた幅広い研究をしている研究者、アンナ・マルモドーロ氏 (Official fellow in Philosophy in the Faculty of Philosophy, and Junior Research Fellow in Corpus Christi College, Oxford) を招聘し、清泉女子大学キリスト教文化研究所と共催で実施されます。 N.B. 清泉女子大学構内に入られる際は守衛所に声をかけ、来学者用の札を受け取って着用し、入構してください。 講演題目 Gregory of Nyssa’s account of the Trinity and its classical sources 講師 Dr. Anna Marmodoro (Corpus Christi College, University of Oxford) 講師略歴 アンナ・マルモドーロ氏は、イタリア・ピサ大学卒業、オックスフォード大学哲学科講師・Corpus Christi College フェローを経て、現在はダラム大学 (Durham University) 教授。主な著作に Everything in Everything: Anaxagoras’s Metaphysics (OUP, 2017)。 この件に関するお問い合わせは下記教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻  高橋英海 takahashi@ask.c.u-tokyo.ac.jp

第165回教父研究会のご案内

第165回教父研究会は、2018年10月27日(土)14時から16時30分まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において、宮本久雄(東京純心大学教授)を代表とする科研費プロジェクトとの共催により、Vassa Conticello-Kontouma博士を招聘した講演会を予定しております。 講演題目 Inclusion, exclusion, and ways of religious coexistence in the era of John of Damascus (7th-8th Centuries CE) (ダマスコのヨハネの時代における宗教的相生の道-inclusion, exclusion-) 講師:ヴァッサ・コンティチェッロ・コントゥーマ博士(フランス高等研究実習院EPHE教授、フランスビザンツ研究所IFEB所長) 特定質問:鐸木道剛(東北学院大学教授) 主催者コメント: 天高く馬肥ゆる実りの秋に、引き裂かれ傷ついた万物の癒しと相生を願って、イコンで名高いダマスコのヨハネやギリシア教父の系譜に生きた女性たちをめぐり如上のテーマで講演会およびシンポジウムを行うことは時(カイロス)に適っていることでしょう。このテーマを深めるため、フランスからVassa Conticello-Kontouma教授をお招きすることになりました。Kontouma教授の経歴は以下の通りです。 講師略歴: Vassa Conticello-Kontouma教授はパリ第四大学にてダマスコのヨハネ『知識の泉』をテーマに博士論文を書かれ、現在は教授としてフランス高等研究実習院École pratique des Hautes étudesの宗教学部門Sections Sciences religieusesにて教鞭を取られる傍らフランスビザンツ研究所Institut français d’Études byzantinesの所長も務められています。ビザンツ正教、オスマン帝国下の正教徒コミュニティ、『フィロカリア』およびその編者のニコデモス・ハギオリテなど幅広く東方キリスト教について専門とされており、とくにその編著書La théologie byzantine et sa tradition, Brepols, 2002-のシリーズで知られています。 タイムスケジュール: 14:00-14:10 開会の言葉 14:10-15:40 講演 15:40-15:50 休憩 15:50-16:30 特定質問・フロアとの質疑応答 16:30 閉会の言葉 主催:科学研究費補助金基盤研究(B)「古典教父研究の現代的意義―分裂から相生へ―」(研究代表者:宮本久雄) 共催:教父研究会

第164回教父研究会のご案内

第164回教父研究会は、2018年6月16日(土)14時30分から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。また、14時から14時30分までは、教父研究会2018年度総会も開催されます。 小沢隆之(慶應義塾大学)「アウグスティヌスにおけるquaerereとinuenire—『三位一体論』に定位して」 メッセージ:アウグスティヌス(以下、A.)の思索を貫き続けた数多の主題の一つとして、「自己知」をあげることができよう。このテーマは『三位一体論』の後半巻、特に10巻において「精神の自己知」というかたちで集中的に論じられている。  精神の自己知を論じる際に、A.は次のような論理をしばしば語る。「精神は自らに現前するがゆえに、自らを知っている」(10,3,5; 14,4,7)。ここで問いが生じる。なぜ現前と知が結びつけられるのか。また、その現前とは何であるのか。  この現前と知のありかたについての解釈の手がかりを、Emanuel Bermon(Le cogito dans la pensée de saint Augustin)は与えてくれるように思われる。彼の説によれば、精神が知る場合に、自らとそれ以外の対象とでは、知られかたにおいて異なっている。すなわち、後者はinuenire(見いだし)という働きを必要とするのにたいして、前者は必要としない。  しかしながら、Bermon説には問題点がある。その一つは、この説の典拠となるテキストへの解釈が不十分な点である。そのため、inuenireという働きをどのようにとらえればよいのかも不分明となってしまっている。本発表では、Bermonの説をA.のテキストによって裏づけ、さらに修正したい。  具体的にいえば、次のことが確認される。inuenireにはquaerere(探求する)という働きが不可欠であること、そしてquaerereからinuenireへの移行が「何かを知るようになる」という事態を示していること、自己知においてはそのような移行が生じないことが現前という言葉によってあらわされていることが確認される。以上をふまえたうえで、A.における自己知と現前の関係に光を投げかけることが目標となる。 渡邉蘭子(京都大学)「アウグスティヌスにおける愛の秩序の問題-性・結婚・身体をめぐって」 メッセージ:これまでアウグスティヌスは、ヘレニズム文化の影響によって、身体性や欲望を過剰に否定しているとみなされており、それが後代の西洋文化に悪影響を及ぼしたとされている。しかし近年の研究(David G. Hunter, Margaret R. Miles, Peter Brownなど)によって、アウグスティヌスの結婚や性に関する思想を単純に「悪魔視」できないことがわかってきている。  本発表ではそうした研究状況を踏まえて、アウグスティヌスが結婚や性をキリスト教的な愛の秩序という観点から肯定している点を明らかにする。その際、これまで詳細に分析されてこなかった『結婚の善』、『聖なる処女性について』、『寡婦の善について』、『結婚と情欲』などの著作を取り上げて論じる。また、新たに発見されたディヴジャック書簡およびドルボー説教も資料として扱う。  そこで新しい観点として浮かび上がってくるのは以下の点である。第一に、アウグスティヌスは、情欲の問題から、結婚を第二義的な善としてしか肯定できていないと考えられてきたが、さらに重要な点として、従順さ、謙遜さといった主体の意志の問題を挙げている。そこから、結婚が独身と同様に肯定されるとともに、神の前におけるキリスト者の平準化が志向される。第二に、情欲および身体を正しく用いることによって結婚が肯定される。そこでは必然的に、アウグスティヌスにおける愛の秩序の思想、すなわち、神の愛と隣人への愛という二つの愛の秩序の問題が関連して語られる。こうした考察を通して、アウグスティヌスが、性、欲望、身体を単に否定的にみていたのではなく、そのあり方に焦点を当てることによってそれらを肯定的に捉えていたことが明らかになると思われる。