第151回教父研究会のご案内

第151回教父研究会は、2015年3月28日(土)14時から18時まで、上智大学四ツ谷キャンパス12号館301号室(前回と会場が異なっております。ご注意ください)において開かれます(キャンパスマップ)。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

この件に関するお問い合わせは、教父研究会事務局にお願いいたします。

〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1

東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻

高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)

  • 土橋茂樹(中央大学)「観相と受肉―ニュッサのグレゴリオスにおけるプラトン主義的伝統の変容」
    • メッセージ:人間本性の完成を「神に似たものになること」(ὁμοίωσις θεῷ)とみなすプラトン主義的な伝統は、「洞窟の比喩」という極めてよく知られたイメージと相まって、ヘレニズム期以降の哲学者ばかりでなく、ギリシア教父たちにも深い影響を与えた。洞窟から真実在へ、すなわち可感的世界から可知的世界へと上昇することによって人間は「神に似たものになる」とみなすことができる以上、プラトンに由来するこの二つの主題は常に相互補完的な関係にあると言える。とりわけ、「魂の浄化」を「神に似ること」とみなす『パイドン』に見られる主張が、洞窟に象徴される物質性(肉体性)からの脱却というモチーフと一致することは確かである。やがてこれら二つの主題は、道徳的浄化と人間の自然本性の回復という文脈で、フィロン、オリゲネス、プロティノス、バシレイオスたちによって継承され、プラトン主義的な伝統を形成していく。しかし、ニュッサのグレゴリオスにおけるこうした伝統の書き換えによって、問題の力点は明らかに変容したように思われる。 本発表では、受肉したイエスの「へりくだり」の徳を模倣すること、いわゆるimitatio Christiによって「神に似たものになる」というニュッサのグレゴリオスの主張を取り上げ、人間が「徳を行うことによって神に似たものになる」という伝統的な解釈にまったく新しいキリスト教的意味変容が加えられたこと、さらには、肉体からの脱却に対して、霊的肉体への立ち戻りという形で洞窟帰還のまったく新しいキリスト教的書き換えがもたらされたことを明らかにしたい。

第150回教父研究会のご案内

第150回教父研究会は、2014年12月27日(土)14時から18時まで、上智大学紀尾井ビル112号室(地図向かって右端の13番の建物になります)において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

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高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)


  • 小山貴広(名古屋大学)「「感覚の深い洞窟」──アウグスティヌス主義者としての十字架のヨハネ」
    • メッセージ:十字架のヨハネはアビラのテレジアと並ぶスペイン神秘主義を代表する人物の一人である。ヨハネの著作は、内容としては否定神学や恋愛神秘主義など様々な要素が混在しており、形式としては自作の詩の註解という特異なものである。そのためヨハネの思想の影響源に関して様々な推測が行われており、これまでテレジアを始めとして、教父、ドイツ神秘主義、トミズム、人文主義、果てはユダヤ、イスラームの神秘主義などが挙げられてきた。本発表はヨハネがアウグスティヌス主義者であったことを示すことを目的とする。具体的にはヨハネの詩「愛の生ける炎」の詩句「感覚の深い洞窟 (las profundas cavernas del sentido)」とその註解に着目することにより、(1) ヨハネが魂の神的な部分を洞窟としてイメージしており、この洞窟が「記憶の洞窟」としての側面を持つこと、(2) ヨハネの記憶論がアウグスティヌス(『告白』、『三位一体論』)の記憶論と語彙の上でも思想の上でも類似していること、(3) アウグスティヌスの記憶からタウラーの「深淵 (abgrúnde = abyssus)」などを経てヨハネの洞窟に至る、魂の神的な部分の系譜が存在すること、を順に見ていきたい。本発表を通してヨハネの詩句をキリスト教思想史の厚みを伴ったものとして提示できればと願っている。
  • 波多野瞭(東京大学)「沈黙と恩寵:トマス・アクィナスにおける探求と教化(仮題)」
    • メッセージ:トマス・アクィナスは晩年、ある神秘的経験の後に一切の著述活動を放棄した。本稿ではトマスの恩寵論を基本的な道筋としながら、この「沈黙」がトマスの知的探求及び教化の営みにおいて持つことになった射程を明らかにしてゆく。
      トマスの雄弁と沈黙は矛盾しあうものでなく、むしろ後者は前者の完成の形態である。トマスの神学はそもそも神の把握不可能性に裏打ちされるため、沈黙は理性の失敗の証ではありえない。むしろそれは、語るべきことが全く残されていないという事態の否定的な表現であり、トマスを理性から解放し神へと結びつけた「成聖の恩寵」の痕跡である。
      このような沈黙により、トマスが他者の教化を中止したのは確かである。しかし沈黙は語りと類を違えるのだから、伝達力を持たないということで沈黙に悪性を想定することはできない。さらに、著述による教化が現世における人間集団の秩序を構成する「無償の恩寵」である一方、トマス個人を神へと直接結びつける「成聖の恩寵」の賜物とされうる沈黙は、より高度の善を体現した「ふさわしい」ものとも考えられるのである。
      とはいえ、トマスの沈黙は単に個人のものにとどまらない。雄弁な神学者の沈黙は特異な出来事として我々の推論的理性を賦活し、沈黙にまで至る知的営みを追体験させることになるだろう。それゆえトマスの沈黙は、彼の雄弁とともに特異な形式において善を伝達し、終局的には我々を直接的に神へと秩序づける、そのような恩寵の痕跡なのだと言えよう。

第149回教父研究会のご案内

第149回教父研究会例会は、2014年9月7日(日)15時から18時まで、中央大学駿河台記念館 330教室(3F)において開かれます。今例会は、土橋茂樹先生の研究室との共催により、ブロンウェン・ニール博士を招聘した講演会を予定しております。皆様のご参加を心よりお待ち申しあげております。

講演題目 シュネシオスと古代末期における夢解釈:テオーシスとしての夢見

発表者 ブロンウェン・ニール博士(オーストラリア・カトリック大学)

講演概要 キュレネのシュネシオスは、5世紀初頭、アレキサンドリアでヒュパティアに学んだ新プラトン主義者でありながら、後に(意に反して)司教となった人物です。新プラトン主義とキリスト教という二つの世界観の狭間で、彼は自らの「夢解釈」を通して独自の理論を展開していきます。それが今回のテーマとなる「神化(テオーシス)としての夢見」です。本邦ではほとんど知られていないギリシア教父シュネシオスについて体系的な話を聴くことのできる絶好の機会であるだけでなく、アリストテレス以来、ヘレニズム期を通じて数多く説かれた「夢」解釈 (de insomuniis) についても実に興味深い話を聴くことができると思います。
 なお当日の講演は英語で行われますが、数センテンスごとにその都度日本語に翻訳する完全通訳付きです。予定としては、60分ほどの講演の後、休憩 (15分)をはさんで、特定質問(土橋)、一般質疑応答、その後ケイタリングでのティーブレイクでリラックスしつつ、ニール先生を囲んでの自由歓談という形になります。できるだけ多くの方々の御来聴をお待ちしております。

主催 平成26年度 科学研究費補助金 基盤研究(C)(研究代表者 土橋茂樹)
共催 教父研究会

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高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)

第148回教父研究会のご案内

第148回教父研究会は、2014年6月14日(土)14時から18時まで、上智大学12号館301号室において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。研究会にさきだって、13時30分から14時まで、同所にて総会が開かれます。仔細については、後日会員の皆さままでご連絡を差しあげます。

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  • 後藤里菜(東京大学)「中世キリスト教世界―与えられる「実際的な叫び」をめぐって」
    • 要旨: 中世キリスト教世界で聖なる意味を帯びた「叫び」と言えば、出エジプト記で主がモーセに述べる「なぜ私に向かって叫ぶのか Quid clamas ad me? (Exodus 14:15)」における叫びである。神の耳にのみ届くそのような「心の叫び」はアウグスティヌスからジェラルド・オブ・ウェールズ、ヤコブス・デ・ウォラギネらによって、繰り返し述べられてきた。それでは、他の人間の耳にも聞こえる、大きな音量を伴う「実際的な叫び」にはどのような意味がこめられてきたのだろうか。
       聖人伝やエクセンプラ集、奇跡譚等を紐解いてみると、「実際的な叫び」の中でも「意味のわからない(動物的な)叫び」は狂人、罪人、悪魔、地獄・煉獄など「悪しきもの」との結びつきが強かったことが明らかである。一方、「意味のわかる叫び」に関しては、子供や女性など力なき者が真実を述べる場合にしばしば現れる。
       以上のような傾向は中世の間じゅう変わらない一方で、12世紀後半以降その数を増す聖女伝において、与えられる「実際的な叫び」に新たな意味づけがされているように思われる。その叫びゆえ時に悪魔憑きとみなされながらも、最終的には「聖なる」女性として語られえたのは如何にしてか。従来個別的に扱われることの多かった聖女伝を「実際的な叫び」という文脈から捉え直してみたい。ワニーのマリやクリスティーナ・ミラビリス、フォリーニョのアンジェラ、リミニのキアラらを扱う。
  • 平野和歌子(京都大学)「三位一体における御父と御子の等しさ―アウグスティヌス『マクシミヌス批判』にもとづいて―」
    • 要旨:アウグスティヌスは、427年頃にアリウス派のマクシミヌスと公開討論を行った後、自分の見解を十分に示せなかったとして『アリウス派の司教マクシミヌス批判 (Contra Maximinum haereticum Arianorum episcopum libri duo)』を著した。この公開討論でアウグスティヌスとマクシミヌスが主要に対立したのは、御父と御子が実体について等しいかどうかであった。アウグスティヌスは聖書の正統的な解釈を示しながら御父と御子とが等しいことを論証し、さらにイエス・キリストが御父と御子との関係において適切に位置づけられるべきだと主張している。
       アウグスティヌスは、この公開討論の際だけでなく『三位一体論 (De trinitate)』でもアリウス派を批判している。『三位一体論』の中でも特にアリウス派と関連する第七巻までの執筆時期は、公開討論よりも十年ほど前だと考えられる。それゆえ、『三位一体論』と『マクシミヌス批判』との間では御父と御子が等しいという見解に揺らぎはないが、『マクシミヌス批判』でより深まった議論も展開されている。例えば『三位一体論』では御父と御子の等しさについて「実体」や「関係」という概念を使用した説明のみにとどまっているようだが、『マクシミヌス批判』では御父と御子の等しさを主張することの救済論的意義が意識されている。
       そこで本発表では、アウグスティヌスの『マクシミヌス批判』を見ることで、御父と御子の等しさについて検討し、その等しさの理解の上で、イエス・キリストが救済論において果たす役割を明らかにする。

第147回教父研究会のご案内

第147回教父研究会は、2014年3月29日(土)(14時0分-18時00分)に、上智大学12号館301号室 (土曜日は東門が閉門しておりますので、正門からお入りください)において、加藤武先生をお招きした講演会を予定しております。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

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  • 加藤武(立教大学名誉教授)「Tempus et Adverbum temporale」
    • 講演者からのメッセージ:sero とはなにか。この問いは、いつごろからか、脳裏に去来する問いでした。Pierre Courcelles の sero をめぐる研究は文学史的な視点に立つ記念塔です。sero の含意のゆたかさに目をそばだてます。でも sero とはなにか。sero te amavi という文において sero と amavi は互いにどういう関係にあるのだろうか。これまで Augustinus の時間論といえば、Confessiones, XI が脚光をあびているように思われるのですが、それ以外の箇所ではどうか。sero は時間副詞です。文法学において時間副詞はどういう位置を占めるのか。sero te amavi の文法学的な視点に関心をよせるようになりました。探求の巡礼は、はじまったばかりです。みなさまのご教示をいただきたく存じます。ご批判の矢を放つてください。
    • 講演構成
      • 第一章 TempusーDionysius Thrax における:ストア派における Tempus を Dionysius Thrax の断章において見る。 
      • 第二章 Adverbum temporale
        • 第一節 Augustinusにおける:Sero te amavi (Conf. XXVII, 38) における Adverbum temporale の役割を見る。
        • 第二節 Edgar Allan Poe における:Poe の Nevermore(大鴉)における Adverbum temporale の役割を見る。

146th JSPS seminar

146th JSPS seminar will be held on 14 December 2013, 1:30 pm to 6:30 pm at Room 201, Bild. 12, Sophia University. Four presenters concentrate on the symposium theme “Darkness” and will deliver their papers.

  • Masaki Oomori (Nanzan University), “Darkness—as the place of divine manifestation.”
  • Wataru Hakamada (University of Tokyo), “Into the darkness—Pseudo-Dionysius Areopagita’s thought of the darkness.”
  • Misa Shimizu (Waseda University), “Encounter with God in the darkness and the light—‘Jacobs Ladder’ and ‘Burning bush and Moses’ in Parecclesion of Chora Monastery, Istanbul.”
  • Koutaro Hiramatsu (Sophia University), “Pietism in Mediaeval Jewish Thought—the understanding of God in the Ashkenazi Hasidic.”

第146回教父研究会のご案内

第146回教父研究会は、2013年12月14日(土)(13時30分-18時30分)に、上智大学12号館201号室(下図参照)において「闇」を共通テーマとしたシンポジウムを、上智大学教育イノベーション(詳細については、上智大学共生学研究会ブログ)と共催して開きます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

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東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻
高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)


  • 大森正樹(南山大学)「闇-神現の場〔仮題〕」
    • メッセージ 光に対置される闇を神認識の場として捉える傾向はギリシア教父の思想に顕著に見られる。闇という一見否定的価値をもつものに、人間にとり最重要と思われる神認識の場を設定するこの志向性は何を物語り、また何を意味し、そこにおける神認識とはどのようなものなのだろうか。
       本発表はこのような問題意識のもとに、まず旧約聖書や新約聖書の「闇」についての記述を外観し、教父思想に多大の影響を与えたフィロンによる「闇」の思想を探る。そしてニュッサのグレゴリオス等の教父の文献に見られる「闇」に関する言葉が二通り(グノフォスとスコトス)あることに着目し、この二語のもつ意味を分析し、神認識には「グノフォス」が深く関わることを見ていく。教父思想を集大成したと思われるグレゴリオス・パラマスでは、「闇」が擬ディオニュシオスの影響のもと、神認識に収斂していく様相を素描し、東方キリスト教における「神認識」と「闇」との関係を考察する。その際特に、東方霊性の具体的表現としての「イコン」に注目し、「燃える茨のイコン」と「キリスト変容のイコン」を取り上げ、「変容と暗闇」の関係を考察し、最終的に「闇」の中での神認識とは何であったに言及したい。
  • 袴田渉(東京大学)「暗黒の中へ──偽ディオニュシオスの闇の思想」
    • メッセージ 本発表は、偽ディオニュシオス・アレオパギテース(六世紀頃)の主著の一つである『神秘神学(De mystica theologia)』の読解を通して、そこにおける「暗黒(γνόφος)」という語の意味内容の理解を目指す。同語は、東西のキリスト教神秘思想に共通する「闇」のイメージの一源泉であると共に、ディオニュシオスの思想において「神との合一」を語る場面で重要な役割を果たす鍵語であって、詳細な考察を要するものである。
       このようなディオニュシオスにおける「暗黒」を理解するために、本発表では、『神秘神学』一章三節および二章のテクストに着目する。同テクストは、『出エジプト記』におけるモーセのシナイ山登攀の記述(七十人訳二十章一八~二一節)に基づいて著されているが、ディオニュシオスはその箇所を、独自の語彙や語法をもって解釈し、語り直している。そして、そのことはディオニュシオスの「暗黒」理解の特徴を明らかに示していると思われる。そこで、ここでは、とりわけ『出エジプト記』の上掲箇所との比較考察を通して、ディオニュシオスにおける「暗黒」の空間性を指摘したい。神との合一は、実に「場所(τόπος)」としての「暗黒の中」において為されるのであり、その際、暗黒の中へっていく者は、「無に属する者となる」と言われる。本発表では、如上の表現に注目し、解釈を試みる。
  • 清水美佐(早稲田大学)「「闇」と「光」における神との出会い─コーラ修道院葬礼用礼拝堂における≪ヤコブの梯子≫と≪モーセと燃える柴≫考察」
    • メッセージ 旧約聖書において、ヤコブは夢で梯子の上に神を見、また闇のうちに神と格闘した。モーセは燃える柴の光に導かれて神の呼びかけを受けた。いずれの場合も神と直接出会うが、神の顔は確認されていない。ビザンティン後期の聖堂装飾には、≪ヤコブの梯子≫≪モーセと燃える柴≫の場面を組み合わせて描く作例が複数残る。トラブゾンのアギア・ソフィア聖堂やオフリドのパナギア・ペリブレプトス聖堂を初期の作例として、テサロニキのアギイ・アポストリ聖堂、イスタンブールのコーラ修道院、マケドニアのレスノヴォ修道院に見ることができる。
       コーラ修道院では葬礼用礼拝堂の北壁に描かれている。礼拝堂後方からアプシス側へ向かって、≪ヤコブの梯子≫≪格闘するヤコブ≫≪モーセと燃える柴≫の順に並ぶ。燃える柴の場面にはモーセが三度描かれており、燃えつきぬ柴に驚く姿、履物の紐を解く姿に加えて、神を見ることを恐れて顔を覆う姿が表される。顔を覆う姿は、上述の他の聖堂における≪モーセと燃える柴≫には見られないものである。さらに、顔を覆うモーセの先には≪最後の審判≫≪天国≫の場面が続いている。
       コーラ修道院葬礼用礼拝堂では、≪ヤコブの梯子≫≪モーセと燃える柴≫の連続、神を見ることを恐れて顔を覆うモーセの描出によって、「神と出会うが神の顔を見ることができない」ことが繰り返して強調され、直後に≪最後の審判≫≪天国≫が続くことによって、逆説的に「天において顔と顔を合わせて神を見る」ことを想起させるプログラムとなっている。
  • 平松虹太郎(上智大学)「中世ユダヤ思想における敬虔主義の思潮─アシュケナーズ系ハシディームの神理解を巡って」
    • メッセージ 本発表は中世ユダヤ教における一つの思想運動(アシュケナーズ系ハシディームの思想)について言及するものである。アシュケナーズ系ハシディームとは12〜13世紀のドイツ(ラインラント)において一大勢力をほこり、後にカバラーに吸収されたユダヤ神秘主義の一思潮である。迫害の嵐吹き荒れるドイツで育ったこの思想の特徴は、敬虔さに対する異常なまでの情熱と神秘主義的な神理解にある。
       それは同時代のスファラディー系ユダヤ人の思想家たちとは大きく異なったものであった。彼らにとってイスラーム思想を媒介としたアリストテレス的論理学はたいした意味を持たず、合理主義的な哲学的志向性は育まれることがなかった。むしろそこに見られるのは古代ユダヤの魔術やヘレニズムに端を発するオカルティズム、あるいは古代ドイツの魔法信仰や悪魔信仰といったあらゆる非合理と異質さの習合であった。
       本発表ではある歴史図像学的問題を始点とし、アシュケナーズ系ハシディームが持つ思想的問題圏の重要性を垣間見たい。今回は特に彼らの神に関する言説に焦点を当てる予定である。すなわちアシュケナーズ系ハシディームにとって神の測り難さ(incomprehensibilis)はどのように捉えられてきたのか、そしてそれが彼らの現実の信仰生活にどのように関わってきたのかについて考察していきたい。そこではキリスト教神秘主義が見出した神的闇とは異なる神的光(カーボード)が一つの鍵となると思われる。
    • コメンテーター:リアナ・トリュファシュ(筑波大学)

145th JSPS seminar

145th JSPS seminar will be held on 28 September 2013, 2:00 pm to 6 pm at Room 401, Bild. 12, Sophia University. Two presenters will deliver their papers.

  • Eriko Tsuji (Research Fellow (PD), Japan Society for the Promotion of Science / Hitotsubashi University), ‘The 11th Century Byzantine Marginal Psalter and the Reception of Patristic Thought.’
  • Michitaka Suzuki (Okayama University), ‘The Disenchantment of the Ancient Divine Statues.’

第145回教父研究会のご案内

第145回教父研究会は、2013年9月28日(土)に、上智大学12号館401号室において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。
 この件に関するお問い合わせは教父研究会事務局にお願いいたします。

〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻
高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)


  • 辻絵理子(日本学術振興会特別研究員PD/一橋大学)「ビザンティンの「余白詩篇」と教父思想の受容」
    • メッセージ 中期ビザンティン時代(9~14世紀)の作例が現存する「余白詩篇」は、その名の通り本文を綴じしろに寄せて設けた余白に挿絵を描く形式を有する写本群である。本文は旧約聖書の『詩篇』であるにも拘らず、挿絵には新旧約聖書、聖人伝、歴史上の事件など、テキストに収録されていない様々な典拠に基づいた主題が描かれる。それぞれの絵は異なる理由で本文と結びつけられており、殆どテキストの字義通りに描かれた挿絵、本文と関連付けて実在の人物が描きこまれた挿絵、予型論的解釈に基づいて描かれた挿絵などに分けられる。
       その特徴から「註解挿絵」とも呼ばれる同形式のうち、本発表では11世紀の『テオドロス詩篇』を取り上げて、「余白詩篇」写本の特徴と、挿絵に見られる教父思想の受容について考察する。同系統の9世紀の作例が現存する同写本だが、11世紀には、それまで無名であった人物像に特定の聖人名が銘として書き込まれる、いわゆる聖人導入現象が見られ始める。ひとつひとつの挿絵が独自の理由で選択されて描かれていることもあり、こうした現象を全て説明し得るたったひとつの根拠を示すことは困難であろう。この時期に「余白詩篇」に描かれ始めた聖人たちの中には、著名な教父も含まれている。また、同写本は手本を参考にしつつも対応章句やレイアウトの改変を行うことで、様々な箇所で新たな読み解きを可能にしているが、そこに見られる当時の教父思想の受容を指摘する。
  • 鐸木道剛(岡山大学教授)「古代の神像の脱魔術化:エウセビオスの場合」
    • メッセージ 古代の彫像は、今は美術品である。それを神像として真剣に拝む人は、今はいない。いつから美術品になったのか。パノフスキー(Erwin Panofsky 1892-1968)によると、ルネサンスによって古代との「距離」は決定的となり、神像は死に絶えた。だから美術品として復活した(Renaissance and Renascences in Western Art , 1944)。ビザンティン時代についてもマンゴー(Cyril Mango 1928- )は、パノフスキーのいう「距離」はなかったし、古物収集もなかったと断言している(DOP, 1963)。しかし逆に古代ギリシアにおいて神像を「もの」と見る見方はあった(紀元前5世紀フェイディアスのアテナ・パルテノス像、紀元前3世紀ヘーローンダース『擬曲』)。そういうなかでエウセビオス(c. 263-339)が『コンスタンティヌス伝』のなかで、古代の彫像を愚弄するだけではなく、都市の美しい飾りとしか見なしていないことは、彫像のみならずイコンをも「もの」としか見ない8世紀ヨハンネス・ダマスケノスを先取りする即物的な物質観を示していると解釈できないだろうか。