講演会とシンポジウムの活動報告

フランスからご招待のビザンツ思想の専門家である Prof. Vassa Kontouma による講演会と国際シンポジウムは盛況裡のうちに行なわれました。

1. 講演会「東方キリスト教における相生」(Con-viviality in the Eastern Christianity)

講演者 Vassa Kontouma (フランス高等研究実習院EPHE教授、フランスビザンツ研究所IFEB所長)

題目 Inclusion, exclusion, and ways of religious coexistence in the era of John of Damascus (7th-8th Centuries CE)(ダマスコのヨハネの時代における宗教的相生のありかた—inclusion, exclusion)

特定質問者 鐸木道剛(東北学院大学教授)

2. シンポジウム「東方キリスト教における女性と相生」 (Women and Con-viviality in the Eastern Christianity)

A. 山田望 “Change of Views on Ideal Christian Woman in Late Antiquity – From Early Eastern Traditions to the Pelagian Controversy -“(古代末期におけるキリスト教女性観の変遷-初期東方伝承からペラギウス論争まで-)

B. 袴田玲 “Interpretations of the Dormition of the Virgin Mary in Byzantine Church” (ビザンツ正教会における聖母の眠り〔生神女就寝〕をめぐる解釈)

C. Vassa Kontouma “Between Theology and Law. The Status of Married Women in Byzantium”(神学と法のはざま-ビザンツにおける既婚女性の身分)
特定質問 出村みや子(東北学院大学教授)

当日の講演会とシンポジウムの様子、また開催後の懇親会にて歓談なさっている Prof. Kontouma と出席者の写真を掲載します。

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第165回教父研究会のご案内

第165回教父研究会は、2018年10月27日(土)14時から16時30分まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において、宮本久雄(東京純心大学教授)を代表とする科研費プロジェクトとの共催により、Vassa Conticello-Kontouma博士を招聘した講演会を予定しております。

講演会ポスター

講演題目
Inclusion, exclusion, and ways of religious coexistence in the era of John of Damascus (7th-8th Centuries CE)
(ダマスコのヨハネの時代における宗教的相生の道-inclusion, exclusion-)

講師:ヴァッサ・コンティチェッロ・コントゥーマ博士(フランス高等研究実習院EPHE教授、フランスビザンツ研究所IFEB所長)

特定質問:鐸木道剛(東北学院大学教授)

主催者コメント:
天高く馬肥ゆる実りの秋に、引き裂かれ傷ついた万物の癒しと相生を願って、イコンで名高いダマスコのヨハネやギリシア教父の系譜に生きた女性たちをめぐり如上のテーマで講演会およびシンポジウムを行うことは時(カイロス)に適っていることでしょう。このテーマを深めるため、フランスからVassa Conticello-Kontouma教授をお招きすることになりました。Kontouma教授の経歴は以下の通りです。

講師略歴:
Vassa Conticello-Kontouma教授はパリ第四大学にてダマスコのヨハネ『知識の泉』をテーマに博士論文を書かれ、現在は教授としてフランス高等研究実習院École pratique des Hautes étudesの宗教学部門Sections Sciences religieusesにて教鞭を取られる傍らフランスビザンツ研究所Institut français d’Études byzantinesの所長も務められています。ビザンツ正教、オスマン帝国下の正教徒コミュニティ、『フィロカリア』およびその編者のニコデモス・ハギオリテなど幅広く東方キリスト教について専門とされており、とくにその編著書La théologie byzantine et sa tradition, Brepols, 2002-のシリーズで知られています。

タイムスケジュール:
14:00-14:10 開会の言葉
14:10-15:40 講演
15:40-15:50 休憩
15:50-16:30 特定質問・フロアとの質疑応答
16:30 閉会の言葉

主催:科学研究費補助金基盤研究(B)「古典教父研究の現代的意義―分裂から相生へ―」(研究代表者:宮本久雄)
共催:教父研究会

第164回教父研究会のご案内

第164回教父研究会は、2018年6月16日(土)14時30分から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。また、14時から14時30分までは、教父研究会2018年度総会も開催されます。

  1. 小沢隆之(慶應義塾大学)「アウグスティヌスにおけるquaerereとinuenire—『三位一体論』に定位して」
    • メッセージ:アウグスティヌス(以下、A.)の思索を貫き続けた数多の主題の一つとして、「自己知」をあげることができよう。このテーマは『三位一体論』の後半巻、特に10巻において「精神の自己知」というかたちで集中的に論じられている。
       精神の自己知を論じる際に、A.は次のような論理をしばしば語る。「精神は自らに現前するがゆえに、自らを知っている」(10,3,5; 14,4,7)。ここで問いが生じる。なぜ現前と知が結びつけられるのか。また、その現前とは何であるのか。
       この現前と知のありかたについての解釈の手がかりを、Emanuel Bermon(Le cogito dans la pensée de saint Augustin)は与えてくれるように思われる。彼の説によれば、精神が知る場合に、自らとそれ以外の対象とでは、知られかたにおいて異なっている。すなわち、後者はinuenire(見いだし)という働きを必要とするのにたいして、前者は必要としない。
       しかしながら、Bermon説には問題点がある。その一つは、この説の典拠となるテキストへの解釈が不十分な点である。そのため、inuenireという働きをどのようにとらえればよいのかも不分明となってしまっている。本発表では、Bermonの説をA.のテキストによって裏づけ、さらに修正したい。
       具体的にいえば、次のことが確認される。inuenireにはquaerere(探求する)という働きが不可欠であること、そしてquaerereからinuenireへの移行が「何かを知るようになる」という事態を示していること、自己知においてはそのような移行が生じないことが現前という言葉によってあらわされていることが確認される。以上をふまえたうえで、A.における自己知と現前の関係に光を投げかけることが目標となる。
  2. 渡邉蘭子(京都大学)「アウグスティヌスにおける愛の秩序の問題-性・結婚・身体をめぐって」
    • メッセージ:これまでアウグスティヌスは、ヘレニズム文化の影響によって、身体性や欲望を過剰に否定しているとみなされており、それが後代の西洋文化に悪影響を及ぼしたとされている。しかし近年の研究(David G. Hunter, Margaret R. Miles, Peter Brownなど)によって、アウグスティヌスの結婚や性に関する思想を単純に「悪魔視」できないことがわかってきている。
       本発表ではそうした研究状況を踏まえて、アウグスティヌスが結婚や性をキリスト教的な愛の秩序という観点から肯定している点を明らかにする。その際、これまで詳細に分析されてこなかった『結婚の善』、『聖なる処女性について』、『寡婦の善について』、『結婚と情欲』などの著作を取り上げて論じる。また、新たに発見されたディヴジャック書簡およびドルボー説教も資料として扱う。
       そこで新しい観点として浮かび上がってくるのは以下の点である。第一に、アウグスティヌスは、情欲の問題から、結婚を第二義的な善としてしか肯定できていないと考えられてきたが、さらに重要な点として、従順さ、謙遜さといった主体の意志の問題を挙げている。そこから、結婚が独身と同様に肯定されるとともに、神の前におけるキリスト者の平準化が志向される。第二に、情欲および身体を正しく用いることによって結婚が肯定される。そこでは必然的に、アウグスティヌスにおける愛の秩序の思想、すなわち、神の愛と隣人への愛という二つの愛の秩序の問題が関連して語られる。こうした考察を通して、アウグスティヌスが、性、欲望、身体を単に否定的にみていたのではなく、そのあり方に焦点を当てることによってそれらを肯定的に捉えていたことが明らかになると思われる。

第163回教父研究会のご案内

第163回教父研究会は、2018年3月3日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館1階メディアラボ1において開かれます。

  1. 神門しのぶ(清泉女学院短期大学)「アウグスティヌス『教えの手ほどき』研究の魅力」
    • メッセージ:従来、教育学領域でアウグスティヌスと言えば『教師論』(389) が読まれることのみ多かったが、この書は人が学ぶ時の認識のしくみを問うているため自己教育の要素が強い。また、人間の教師は何も教えられないという結論も相俟って、『教師論』を主たる考察対象とした場合に見えてくるものは消極的な教育理論である。一方、司教叙階後の著作『教えの手ほどき』(c. 400) は、彼が改宗者に教理を教える務め、すなわち他者教育が論究の素材になっている。ならば、二つの著作を併せて読むことで、アウグスティヌスの教育思想は初めて、〈教える〉と〈学ぶ〉の両側面を含むものとして見えてくるのではないか。そのような着想から拙論『アウグスティヌスの教育の概念』(2013) では、すでに価値観を共有している相手を教えるという、比較的苦労の少ない教師時代を経たのち、まだ価値観を共有できてきない相手を教えるという、より困難な教育活動に携わったアウグスティヌスの歩みに焦点を当てた。発表の前半ではその概要を紹介したい。後半では、発表者がその後『教えの手ほどき』をどのように読み進めているかについて二点報告させていただく。一点目は、この書の7節でアウグスティヌスがキリスト教的愛の概念の卓越性を、当時の一般教養であったところの友愛概念を下敷きにして説く様子を考察した成果の報告である(「P. アドの古代哲学解釈を通して読むアウグスティヌス『教えの手ほどき』」カトリック教育研究第34号、2017年)。二点目はこれから着手する課題の披歴にとどまるが、後続の8節でアウグスティヌスは隣人概念を取り上げることで新約聖書と旧約聖書の関わりを述べようとしているため、この箇所について問いの立て方や検討方法に関する示唆を得られればと思う。
  2. 林皓一(慶應義塾大学)「4世紀後半ローマ帝国西方における「信条」について-アビラのプリスキリアヌスを手掛かりとして-」
    • メッセージ:4世紀の教会は、コンスタンティヌス帝の公認を受け地理的にも社会的にも大きく拡がる一方で、神理解についての共通の基準をめぐり混乱に陥った。アリウスの教説に端を発する激論は三位一体論の教義を確立させていくことになるが、この過程においては数々の教会会議が開かれ、信仰を表明する定式化された文章として「信条」が宣言された。この中でも「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」は最も権威あるものとして以後の時代に受け継がれていく。だがもう一つ、古代に起源を持つものとして「使徒信条」がある。現在、どちらの「信条」もキリスト教の共通の基盤であるが、成立当初の状況はどのようであったのだろうか。
       本発表は、4世紀後半ローマ帝国西方における「信条」の状況を示すことを目的とする。具体的には、当時の当該地域において、(1) 「信条」としてどのテキストが知られていたのか、(2) それがどのような場面において用いられていたのか、(3) それはいかなる語により指示されていたのか、を諸史料から提示する。もっとも、網羅的な検討を行うのではなく、代表的な史料と通説的見解を紹介した上で、発表者が研究対象としているアビラのプリスキリアヌス(?-385/6) による証言をそこに加えることになる。異端者であるが故に彼の証言は軽視されてきたが、「信条」に対する彼の証言を分析することは、4世紀後半の西方キリスト教への理解を深めるために有益であると考える。

第162回教父研究会のご案内

シンポジウム「愛について──エロース・アモル・カリタス」

開催日時  12月2日(土)13:00–18:00
場所  東京大学駒場キャンパス10号館 301会議室

提題者

  • 山本巍(東京大学名誉教授)「二つの愛-プラトン『饗宴』から-」
  • 宮本久雄(東京純心大学教授)「アウグスティヌス―自己の重さ(pondus)としての愛」
  • 土橋茂樹(中央大学教授)「愛の矢と愛の痛手―オリゲネスとニュッサのグレゴリオス双方の「雅歌」解釈をめぐって―」(仮題)
  • 山本芳久(東京大学准教授)「トマス・アクィナスにおける愛の構造」

提題者持ち時間  1人1時間(発表 40–50分と質疑応答 10–20分)

メッセージ
 このたび教父研究会は、第162回研究会を「古典教父研究の現代的意義─分裂から相生へ―」を課題とする科研グループ(基盤研究 (B) 研究代表者:宮本久雄)と共催し、如上のテーマでシンポジウムを開催いたします。プラトンからギリシア教父、アウグスティヌス、トマスに至るまで古典的世界からの愛のメッセージを現代に放ちます。
 放てば満てり。
 皆様の参加をよろしく祈願しております。

宮本久雄

第161回教父研究会のご案内

第161回教父研究会は、2017年9月30日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。

  1. 山根息吹(東京大学)「ニュッサのグレゴリオス『その時子自身も』※1における万物回復論──人格の完成と人間本性全体の完成の関わりをめぐって」
    • メッセージ:
       メッセージ:ニュッサのグレゴリオスの万物回復論に関して、グレゴリオスが実体的単一性を有する人間本性全体にロゴスが受肉によって混ざったと考える解釈を根拠にして、終末における人間本性全体の完成を主張していることが複数の先行研究によって注目されている。その一方で、ラドローはこのような普遍的人間本性に基づく救済論が、グレゴリオスによってより多くのテキストで主張されているような自由意志に基づく個人の完成に対する思想とは調和し難いものであるという解釈上の問題を指摘をしている。※2
       このような先行研究を受けて本発表では、グレゴリオスが、人間本性全体の完成とキリストの模倣や悪からの浄化という人格の完成の両方に言及しながら、万物の完成へ至る過程を詳細に論じている著作である『その時子自身も』を読み解いていく。その際、先行研究が『その時子自身も』を断片的に引用して、先の結論を導き出していたのに対して、より広い文脈で再解釈することで、グレゴリオスが人間本性全体の完成と人格の完成を万物の完成へ至る救済過程に矛盾なく位置付けていることを明らかにする。さらに、人格の完成の捉え方を新たに検証することで、グレゴリオスが人格の完成を、人間本性全体の完成と対置される個人の問題としてではなく、終末における完成へ向かう他者ないし人間本性全体との関わりのなかに見出していることについて指摘したい。

      ※1 『ニュッサの司教グレゴリオスの「その時子自身もすべてを彼に服従させた方に服従するであろう」に対する〔論説〕』(In illud: tunc GNOⅲ/2.3.:ΓΡΗΓΟΡΙΟΥ ΕΠΙΣΚΟΠΟΥ ΝΥΣΣΗΣ ΕΙΣ ΤΟ ΤΟΤΕ ΚΑΙ ΑΥΤΟΣ Ο ΥΙΟΣ ΥΠΟΤΑΓΗΣΕΤΑΙ ΤΩΙ ΥΠΟΤΑΞΑΝΤΙ ΑΥΤΩΙ ΤΑ ΠΑΝΤΑ)を『その時子自身も』と略すこととする。
      ※2  Morwenna Ludlow, Universal Salvation: Eschatology in the Thought of Gregory of Nyssa and Karl Rahner, Oxford, 2000, pp. 92–94.

  2. 大庭貴宣(日本長老教会・キリスト聖書神学校)「殉教者ユスティノスにおける「神の力」と「聖霊」の理解──『第一弁明』第33章と『対話』第87章を中心に」
    • メッセージ:
       殉教者ユスティノス (100–165) が、どのように「神の力」と「聖霊」を理解したかについて、本発表で考察する。そこで、まず『第一弁明』第33章を取り上げる。この章は、キリストの受肉について記されている。特に、注目すべきは第33章4節の「神の力が処女に臨み、彼女をおおい、処女のまま身ごもらせたのです」と、第33章6節の「そして聖霊が処女に臨んでおおい、交わりを通してではなく、力によって身ごもらせたのです」という記述である。つまり、第33章4節では、マリヤに臨み、おおったのは「神の力」である。けれども、第33章6節では「聖霊」が臨んでおおったとある。そのため、マリヤを身ごもらせたのは、「神の力」とも「聖霊」ともなる。
       そこで、ユスティノスにおいて「神の力」と「聖霊」は区別されていたか、あるいは混同されていたかという疑問が生じる。これはユスティノスにおいて、三位一体が確立されていたか、あるいは二位一体であったかに繋がる課題である。さらに聖霊を位格 (persona) として捉えていたかについても検討の必要性がある。
       次いで、ユスティノスの「神の力」と「聖霊」の働きを検討するために『対話』第87章を取り上げる。この箇所は、洗礼時、キリストに聖霊が臨んだことについて述べている箇所であるが、リヨンのエイレナイオス (130/140–202) の聖霊理解と比較しつつ、ユスティノスの聖霊理解を浮き彫りにしたい。

第160回教父研究会のご案内

第160回教父研究会は、2017年6月24日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。
 今回の研究会においては、2名の発表と総会を予定しています。

  1. 寒野康太(ドミニコ会)「教父研究としての『四世紀のアリウス派』──教父学研究史上に再び位置づけることは可能なのか」
    • メッセージ:
       ヴィクトリア朝の文人として、また英国の十九世紀の教会関係者としてジョン=ヘンリー・ニューマン(1801-1890)の名は人口に膾炙しており、また教父たちの存在が彼の英国聖公会の改革運動たるオックスフォード運動において大きな比重を占めていたことも一般的に知られている。しかし、現在の教父研究においてニューマンの名を見ることはほとんどないと言ってよい。 それゆえ次の様な疑問が生じよう。「彼の研究を現代の諸研究のなかに位置づけることになにがしかの意義を見いだすことが出来るだろうか、意義があるとしたら、それはどのような点に見いだし得るのか。」という問いである。拙論においてこのことを探るべく、オックスフォード運動初期の教父研究書「四世紀のアリウス派(The Arians of the Fourth Century, 1833年刊)」を分析し、その歴史的背景と受容を検討することしたい。またこの調査によってまた、神学研究と教父研究の関連性の考察にもなにがしか寄与できればと考えている。
  2. 松澤裕樹(大谷大学)「エックハルトの父-子関係理解と存在論──アウグスティヌスとトマス・アクィナスとの比較から」
    • メッセージ:
       アリストテレスの『範疇論』に由来する「実体」と「関係」という二つのカテゴリーによって神が語られるとする思想的伝統は、西方ラテン世界ではアウグスティヌスに端を発し、中世のスコラ哲学へと継承されてきた。トマス・アクィナスと同様に、ドミニコ会士であったエックハルトもまた、この思想的伝統を踏襲し、「父」と「子」を「関係」カテゴリーによって語られる神の名として理解した。
       しかし、論理学的に「関係」カテゴリーによって理解された「父」と「子」が果たして「関係」として存在するのかという存在論的問題になると、エックハルトは上記の思想的伝統から脱却し、彼独自の思想を展開し始める。「父」と「子」に関する論理学的理解が成立する前提として、「父」と「子」が「実体」として存在する必然性を説き、両者が「関係」として存在することを否定するアウグスティヌスに対し、エックハルトはそれを肯定し、「関係」を中核とする新たな存在論を展開する。
       本発表では、エックハルトの思想に多大な影響を与えた二人の神学者アウグスティヌスとトマス・アクィナスの父-子関係理解を論理学的・存在論的観点から考察し、エックハルトのそれと比較することで、アウグスティヌス以来の思想的伝統から脱却したエックハルト存在論の内実を確認していく。

この件に関するお問い合わせは下記教父研究会事務局にお願いいたします。
〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 
高橋英海 mail: takahashi[AT]@ask.c.u-tokyo.ac.jp

第159回教父研究会のご案内

第159回教父研究会は、2017年3月11日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1において、大貫隆訳『グノーシスと古代末期の精神』を中心としたシンポジウムとして開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

  • 提題
    大貫隆「ハンス・ヨナス『グノーシスと古代末期の精神』によせて」

    • メッセージ:
      I  ヨナスを翻訳して最大の発見 
      ・ 物語(本文)の内部での啓示者と人間の出会いは、本文と読者の出会いと並行している。物語論と解釈学の不可分一体。Jonas:「この啓示は神話の内容である物語そのものの中の一場面として出現する。」
      ・ 「知の存在論的不安」。Jonas:「最下位のアイオーンであるソフィアにおいては、プレーローマの頂点からの隔たりが最大であるのに応じて、緊張性と自立性も最大であり、限界の圧力も最大である。その限界が踏み越えられるとき、『認識』は知性の原理から、純粋に情念の原理へ、すなわち、盲目で自力に頼った羨望へと変容する。」
      II 最大の疑問
      ・ なぜバシリデース派が取り上げられないのか。
      ・ 答え:ヨナスはグノーシス=流出論の等式で考えている。「グノーシス」概念が「流出論」に狭小化される。と同時に「流出論」が「グノーシス」と等値とされる点では、グノーシス概念が拡大される。概念の拡大と狭小化が同時に起きている。
      III バシリデース派の例外性
      Hippolytus「バシリデースは、事物の実体が生成してきたのは流出(プロボレー)によるという見方を完全に避けて、それを怖がっていたからである。」(VII 22, 2-3)
      IV ただし、バシリデースの「大いなる無知」の待望も「知の存在論的不安」を証明する。
  • 特定質問者
    • 山本巍
      • メッセージ:
        大貫隆氏の発表へのコメント
        1. 啓示の物語であるグノーシス文書を読む経験が、自分が啓示に照らされる現実になる、とする点で大貫氏とヨナスは一致する。テキストの内(啓示)と外(読者)の相互作用のような言語のメカニズムをもう少し説明して欲しい。知識による人間の救済を説くグノーシスで、その知識はどのような言語の働きで達成できるのか。言葉は実在を何らかの仕方で写す記号系(一が他・多を表現する)で、弱いという点で、ギリシアとユダヤには固有の「言葉への態度」があった(ソクラテスの問答・律法)。これとの対比は有効か。
        2. ヨナスはグノーシス=流出説としたが、他方で多様なグノーシスを統一する視点としてハイデガーの実存論を導入した。この実存論と流出説はどのように結びついているか。
        3. バシリデースは「光あれ」に見られる、言即事を実現する強い言語にコミットしているように思える。それが流出説を採らない理由の一つだろうか。
        4. グノーシス・プロチノス管見:ポリスが崩壊し市民が漠然とした世界に放り出されて個人(孤人)になった古代末期に、グノーシスは知識による自己の救済を、プロチノスは知識による自己の完成を目指した。しかしそれは宗教・哲学の目的になるだろうか。

第158回教父研究会のご案内

第158回教父研究会は、2016年12月17日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館1階メディアラボ2において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

  • 提題
    谷隆一郎「神化の道行きと、その内的根拠をめぐって−「キリストの十字架と復活」の働きを愛智=哲学として問い披く−」

    • メッセージ:
       周知のごとくパウロは、「キリストとの霊的出会い」を次のような鮮裂な言葉で語っている。「もはやわたしが生きているのではなく、わたしのうちでキリストが生きている」(ガラテア2,20)と。これは、「わたし・自己」の閉ざされた境域(自我の砦)がいわば「身心脱落」(道元)のように突破され、受肉したロゴス・キリストの働きないし霊(プネウマ)が人間的自然・本性を場とし器として宿り来った姿であろう。ただしかし、そのパウロの言は証聖者マクシモスによれば、自由(自己決定力)の放棄ではなく、意志的(グノーメー的)聴従を意味するものであった(『難問集』1076B)。
       そうした姿は、およそわれわれの「キリストとの出会い」と「神化(神的生命への与り)の道行き」との中心的場面を示している。そこにはむろん、多様にして一なる同根源的問題が隠されているのだ。今回の提題では、それらの存在論的ダイナミズムとも言うべき基本的動向を注視しつつ、とりわけ「キリストとの出会いの経験」=「使徒たちにおける生の根底的変容」と、そこに現前する「神的かつ神人的エネルゲイア」に思いを潜めてゆく。
       そしてそうした探究にあって、「キリストの受肉・十字架・復活」の全体としての働き(エネルゲイア・プネウマ)は、われわれが「善く意志し、善く為すこと」の可能根拠として、またいわば「意志論の最前線」にあるものとして、その生成・顕現の機微がわれわれ自身のうちに何ほどか問い披かれてゆくことになろう。
  • 特定質問者
    • 袴田玲(日本学術振興会)
      • メッセージ:
         言うまでもなく証聖者マクシモスは最大の思想家の一人として東西両キリスト教世界で現在に至るまで尊敬を集める人物であるが、彼が示した宇宙論的拡がりをもつ神化概念や、その身体への肯定的なまなざしは、まさに自らの内でキリストと出会うことを願うヘシュカストたちにとりわけ大きな影響を及ぼした。ヘシュカスムの伝統に即して編まれたと言われる『フィロカリア』においても、収録されている全三十余名の著述家の中で最大の頁数が割り振られており、ヘシュカスムの歴史における証聖者マクシモスの重要性を伺い知ることができる。以上を踏まえ、今回の谷隆一郎先生のご発表に際し、証聖者マクシモスの後代への影響という観点から、いくつかご質問させていただければと願っている。
    • 山本芳久(東京大学)
      • メッセージ:
         証聖者マクシモス『難問集』に関して、マクロとミクロの二つの観点から問題提起を行います。マクロな観点としては、『難問集』という著作の全体的な特徴・全体構造について問題提起を行います。ミクロな観点としては、マクスモス神学に関して、二つの論点に焦点を当てながら問題提起をしたいと思います。一つ目の論点は、神的なものが「動かされかつ動かす」という神の受動性を示唆するディオニシウス・アレオパギタの言葉をマクシモスがどのように受容し解釈しているのかを、トマス・アクィナスの解釈と対比しながら浮き彫りにすることです。二つ目の論点としては、キリストの「神人的はたらき」についてのディオニシウスの言葉についてのマクシモスとトマスの解釈の異同を明らかにしたいと思います。こうした仕方で、キリスト教神学の伝統におけるマクシモスの立ち位置を浮き彫りにしつつ、議論のための叩き台を提示します。
    • 田島照久(早稲田大学)
      • メッセージ:
         谷先生のご高論が扱われた『難問集』「七 人間と進化―自然・本性の存在論的ダイナミズム」で述べられている次の点に関して、ご教授をいただきたいと思います。
         マキシモスは、「わたしのうちでキリストが生きている」というパウロの言葉が意志的聴従を語っているとし、直前に「もはやわたしの意志するようにではなく、あなたの意志するようになしたまえ」(マタ26・39)を引いて、「キリストが父への聴従を我々の模範として示している」と語っているが、「意志的聴従」とは「子となること」(filiatio)と理解できるのかどうか。そうであれば、その直後の言葉「それによってわれわれは・・・似像が原型へと回復するように現に動かされることを欲する」とはどういう事態を語るものなのか。さらに「神的働きと人間的自由・意志」の循環性に関して、「神化という事態の原範型としてのキリスト」の「神人的エネルゲイア」の観点からこの循環性がどのように説明しうるのかということについてさらにご説明いただければ幸です。

例会後に開催される、谷隆一郎訳『証聖者マクシモス『難問集』東方教父の伝統の精華』(知泉書館、2015)および土橋茂樹編著『『フィロカリア』論考集 善美なる神への愛の諸相』(教友社、2016)の出版記念会の参加も受けつけております。出欠のご連絡は、袴田玲 (aaaahkmd[at]hotmail.com) までよろしくお願いいたします。

第157回教父研究会プログラム

第157回教父研究会は、2016年9月24日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。

9月9日から10日まで、サンクトペテルブルク(ロシア)の SUAI (Saint Petersburg State University for Aerospace Instrumentation) において、第10回 APECSS アジア環太平洋初期キリスト教学会研究集会が開催されました。メインテーマは、 Survival of Early Christian Traditions であり、本研究会会員も多数参加しました。9月例会ではそこでの発表の全体の様子を概観するとともにいくつかの個別発表を取り上げ報告し、国際的な教父学研究の現状や今後の進め方などについて共通討議ができればと存じます。ふるってご参加ください。

今回の APECSS 研究集会専用のウェブサイトにおいて、プログラムと発表者のアブストラクトが掲載されておりますので、ご参考になさってください。

基調報告
 戸根裕士(同志社大学)「アジア環太平洋初期キリスト教学会(APECSS)の位置づけの試論─第十回大会を振り返って─」
 メッセージ:本年2016年のアジア環太平洋初期キリスト教学会にて当学会は十年の節目を迎える。そこでその特徴と方向性を考えるべく、本発表で当学会の設立の経緯やこれまでの学会の内容を整理する。続けて他の国際的な教父並びに初期キリスト教研究の学会と比較したい。そして結論として、教会組織に属さない研究者による学際性の可能性、並びに日本のアウグスティヌス研究の伝統の活用の可能性を指摘したい。

報告 1
 袴田玲(日本学術振興会)「グレゴリオス・パラマスにおける知性(ヌース)概念の継承と展開」

報告 2
 坂田奈々絵(日本学術振興会)「シュジェールの聖ドニ観─初期キリスト教のサバイバルの視点から」

全体討議