第145回教父研究会のご案内

第145回教父研究会は、2013年9月28日(土)に、上智大学12号館401号室において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。
 この件に関するお問い合わせは教父研究会事務局にお願いいたします。

〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻
高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)


  • 辻絵理子(日本学術振興会特別研究員PD/一橋大学)「ビザンティンの「余白詩篇」と教父思想の受容」
    • メッセージ 中期ビザンティン時代(9~14世紀)の作例が現存する「余白詩篇」は、その名の通り本文を綴じしろに寄せて設けた余白に挿絵を描く形式を有する写本群である。本文は旧約聖書の『詩篇』であるにも拘らず、挿絵には新旧約聖書、聖人伝、歴史上の事件など、テキストに収録されていない様々な典拠に基づいた主題が描かれる。それぞれの絵は異なる理由で本文と結びつけられており、殆どテキストの字義通りに描かれた挿絵、本文と関連付けて実在の人物が描きこまれた挿絵、予型論的解釈に基づいて描かれた挿絵などに分けられる。
       その特徴から「註解挿絵」とも呼ばれる同形式のうち、本発表では11世紀の『テオドロス詩篇』を取り上げて、「余白詩篇」写本の特徴と、挿絵に見られる教父思想の受容について考察する。同系統の9世紀の作例が現存する同写本だが、11世紀には、それまで無名であった人物像に特定の聖人名が銘として書き込まれる、いわゆる聖人導入現象が見られ始める。ひとつひとつの挿絵が独自の理由で選択されて描かれていることもあり、こうした現象を全て説明し得るたったひとつの根拠を示すことは困難であろう。この時期に「余白詩篇」に描かれ始めた聖人たちの中には、著名な教父も含まれている。また、同写本は手本を参考にしつつも対応章句やレイアウトの改変を行うことで、様々な箇所で新たな読み解きを可能にしているが、そこに見られる当時の教父思想の受容を指摘する。
  • 鐸木道剛(岡山大学教授)「古代の神像の脱魔術化:エウセビオスの場合」
    • メッセージ 古代の彫像は、今は美術品である。それを神像として真剣に拝む人は、今はいない。いつから美術品になったのか。パノフスキー(Erwin Panofsky 1892-1968)によると、ルネサンスによって古代との「距離」は決定的となり、神像は死に絶えた。だから美術品として復活した(Renaissance and Renascences in Western Art , 1944)。ビザンティン時代についてもマンゴー(Cyril Mango 1928- )は、パノフスキーのいう「距離」はなかったし、古物収集もなかったと断言している(DOP, 1963)。しかし逆に古代ギリシアにおいて神像を「もの」と見る見方はあった(紀元前5世紀フェイディアスのアテナ・パルテノス像、紀元前3世紀ヘーローンダース『擬曲』)。そういうなかでエウセビオス(c. 263-339)が『コンスタンティヌス伝』のなかで、古代の彫像を愚弄するだけではなく、都市の美しい飾りとしか見なしていないことは、彫像のみならずイコンをも「もの」としか見ない8世紀ヨハンネス・ダマスケノスを先取りする即物的な物質観を示していると解釈できないだろうか。