2010–2019年の研究会

  • 第131回研究会(2010年3月27日)中村秀樹「サン・ヴィクトール学派の神学をめぐって」
  • 第132回研究会(2010年6月26日)海老原晴香「背面からの聴従と神の暗黒―ニュッサのグレゴリオスに よる著作読解からの考察―」 ─ 泉雄生「アウグスティヌスの謙遜に基づく神認識について―『ヨハネによる福音書講解説教』第2説教に見る高慢と謙遜の対立―」 ─ 阿部善彦「ハインリッヒ・ゾイゼの『自伝』における愛と記憶」
  • 第133回研究会(2010年9月25日)安井聖「なぜ悔い改めることによってでは救われないのか―アタナシオスの『言の受肉』第7章の解釈」
  • 第134回研究会(2010年12月11日)髙橋英海「エヴァグリオス(偽ネイロス)『祈りについての一五三の断章』のシリア語・アラビア語による伝承について」
  • 第135回研究会(2011年3月19日)東日本大震災によって研究会を中止
  • 第136回研究会(2011年6月25日)大森正樹(南山大学教授)「観想の『文法書』としてのフィロカリア」 ─ 袴田玲「『フィロカリア』成立の背景」─ 袴田渉「ダマスコスのペトロスにおける修行階梯論」
  • 第137回研究会(2011年9月24日)村上寛「愛の変容、或いは愛への変容―『単純な魂の鏡』における超越への開け」
  • 第138回研究会(2011年12月3日)寺川泰弘「ヨアンネス・クリマクスにおける「神の前に立つ人間」とは誰か?」
  • 第139回研究会(2012年3月3日)津田謙治「テルトゥリアヌス『マルキオン反駁』における場所と二神論の問題」
  • 第140回研究会(2012年6月30日)加藤信朗「永遠と時間―アウグスティヌス『告白録』第11巻をめぐって」
  • 第141回研究会(2012年9月29日)リアナ・トルファシュ「ディオニシオス・アレオパギテースのシンボル解釈とその原理―聖書における若干の実例―」 ─ 中西恭子「ユリアヌス「ガリラヤ人駁論」とナジアンゾスのグレゴリオス「ユリアヌス駁論」における神話と象徴解釈」─ 坂田奈々絵「シュジェールの光-擬ディオニュシオスとの類似と断絶について」
  • 第142回研究会(2012年12月22日)谷隆一郎「神への関与・分有における「意思的聴従ないし信のアナロギア」─擬ディオニュシオスと証聖者マクシモス─」─ 山本芳久「トマス・アクィナスのキリスト論:「最高善の自己伝達」としての「受肉」」
  • 第143回研究会(2013年3月16日)松村康平「audiamus――『告白』第9巻10章25節における―」──岡嵜隆哲「知解を求める讃美 ― アウグスティヌス『告白』冒頭箇所(第1巻1章1節)再論 ―」
  • 第144回研究会(2013年6月8日)宮本久雄「フォーティケーのディアドコス」──益田朋幸「オフリドの聖母聖堂における旧約の予型論的解釈」
  • 第145回研究会(2013年9月28日)辻絵理子「ビザンティンの「余白詩篇」と教父思想の受容」──鐸木道剛「古代の神像の脱魔術化:エウセビオスの場合」
  • 第146回研究会(2013年12月14日)大森正樹「闇-神現の場」──袴田渉「暗黒の中へ──偽ディオニュシオスの闇の思想」 ──清水美佐「「闇」と「光」における神との出会い─コーラ修道院葬礼用礼拝堂における≪ヤコブの梯子≫と≪モーセと燃える柴≫考察」 ──平松虹太郎「中世ユダヤ思想における敬虔主義の思潮─アシュケナーズ系ハシディームの神理解を巡って」 ──コメンテータ:リアナ・トリュファシュ
  • 第147回研究会(2014年3月29日)加藤武「Tempus et Adverbum temporale」
  • 第148回研究会(2014年6月14日)後藤里菜「中世キリスト教世界―与えられる「実際的な叫び」をめぐって」 ─ 平野和歌子「三位一体における御父と御子の等しさ―アウグスティヌス『マクシミヌス批判』にもとづいて―」
  • 第149回研究会(2014年9月7日)Special Lecture ブロンウェン・ニール「シュネシオスと古代末期における夢解釈:テオーシスとしての夢見」
  • 第150回研究会(2014年12月27日)小山貴広「「感覚の深い洞窟」──アウグスティヌス主義者としての十字架のヨハネ」 ──波多野瞭「沈黙と恩寵:トマス・アクィナスにおける探求と教化」
  • 第151回研究会(2015年3月28日)土橋茂樹「観相と受肉―ニュッサのグレゴリオスにおけるプラトン主義的伝統の変容」
  • 第152回研究会(2015年6月27日)戸根裕士「ミラノのアンブロシウス『信仰について(de fide)』をめぐる一考察─一・二巻の成立の政治的背景並びに神学的文脈」──菅原裕文「総主教ゲルマノスの遺産─可視化された典礼註解」
  • 第153回研究会(2015年9月26日)徳田安津樹「神を「測量」する─クザーヌスの「知ある無知」と数学的神学―」──鳥居小百合「新神学者シメオンの光体験」
  • 第154回研究会(2015年12月19日)阿部善彦「エックハルトの「子であること」理解について─「父」「一」の観点から―」──出村和彦「アウグスティヌスにおける「貧困」、「病」そして「老齢」」
  • 第155回研究会(2016年3月19日)藤原理沙「アウグスティヌスの墓前祭に対する態度」── 水落健治「アウグスティヌスの聖書解釈─『詩編講解』(69-75編)を中心に」
  • 第156回研究会(2016年6月25日)福田淑子「「無原罪の宿り」の視覚化」──樋笠勝士「教父哲学における「美」の問題」
  • 第157回研究会(2016年9月24日)戸根裕士「アジア環太平洋初期キリスト教学会 (APECSS) の位置づけの試論─第10回大会を振り返って」──袴田玲「グレゴリオス・パラマスにおける知性(ヌース)概念の継承と展開」──坂田奈々絵「シュジェールの聖ドニ観─初期キリスト教のサバイバルの視点から」
  • 第158回研究会(2016年12月17日)谷隆一郎「神化の道行きと、その内的根拠をめぐって─「キリストの十字架と復活」の働きを愛智=哲学として問い披く」──特定質問者:袴田玲──山本芳久──田島照久
  • 第159回研究会(2017年3月11日)大貫隆「ハンス・ヨナス『グノーシスと古代末期の精神』によせて」── 特定質問者:山本巍
  • 第160回研究会(2017年6月24日)寒野康太「教父研究としての『四世紀のアリウス派』─教父学研究史上に再び位置づけることは可能なのか」── 松澤裕樹「エックハルトの父-子関係理解と存在論─アウグスティヌスとトマス・アクィナスとの比較から」
  • 第161回研究会(2017年9月30日)山根息吹「ニュッサのグレゴリオス『その時子自身も』における万物回復論─人格の完成と人間本性全体の完成の関わりをめぐって」── 大庭貴宣「殉教者ユスティノスにおける「神の力」と「聖霊」の理解─『第一弁明』第33章と『対話』第87章を中心に」
  • 第162回研究会(2017年12月2日)シンポジウム「愛について──エロース・アモル・カリタス」:山本巍「二つの愛-プラトン『饗宴』から-」──宮本久雄「アウグスティヌス─自己の重さ(pondus)としての愛」──土橋茂樹「愛の矢と愛の痛手─オリゲネスとニュッサのグレゴリオス双方の「雅歌」解釈をめぐって」──山本芳久「トマス・アクィナスにおける愛の構造」
  • 第163回研究会(2018年3月3日)神門しのぶ「アウグスティヌス『教えの手ほどき』研究の魅力」── 林皓一「4世紀後半ローマ帝国西方における「信条」について-アビラのプリスキリアヌスを手掛かりとして」
  • 第164回研究会(2018年6月16日)小沢隆之「アウグスティヌスにおけるquaerereとinuenire—『三位一体論』に定位して」── 渡邉蘭子「アウグスティヌスにおける愛の秩序の問題-性・結婚・身体をめぐって」
  • 第165回研究会(2018年10月27日)Vassa Conticello-Kontouma, ‘Inclusion, exclusion, and ways of religious coexistence in the era of John of Damascus (7th-8th Centuries CE)’
  • 第166回研究会(2018年12月8日)Anna Marmodoro, ‘Gregory of Nyssa’s account of the Trinity and its classical sources’
  • 第167回研究会(2019年3月16日)ミニシンポジウム「東西キリスト教思想における涙の位置づけ」: 坂田奈々絵「カッシアヌスにおける祈りと涙:エヴァグリオスとの比較を中心に」── 袴田玲「ヘシュカストと涙」── 松村康平「変容する涙──イグナチオ・デ・ロヨラにおける『霊的日記』における涙に関する一考察」
  • 第168回研究会(2019年6月29日)砂田恭佑「体罰否定は教育の放棄か?──ヨアンネス・クリュソストモスの『箴言』13章24節釈義とその背景」
  • 第169回研究会(2019年9月29日)リアナ・トルファシュ「『ディオニュシオス文書』における神の超越性と内在性の思想について」
  • 第170回研究会(2019年12月21日)Peter Steiger, ‘The Formation of the Friends of God: Abraham and Job as Model Teachers in the Writings of Didymus the Blind’