第147回教父研究会は、2014年3月29日(土)(14時0分-18時00分)に、上智大学12号館301号室 (土曜日は東門が閉門しておりますので、正門からお入りください)において、加藤武先生をお招きした講演会を予定しております。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 この件に関するお問い合わせは教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp) 加藤武(立教大学名誉教授)「Tempus et Adverbum temporale」 講演者からのメッセージ:sero とはなにか。この問いは、いつごろからか、脳裏に去来する問いでした。Pierre Courcelles の sero をめぐる研究は文学史的な視点に立つ記念塔です。sero の含意のゆたかさに目をそばだてます。でも sero とはなにか。sero te amavi という文において sero と amavi は互いにどういう関係にあるのだろうか。これまで Augustinus の時間論といえば、Confessiones, XI が脚光をあびているように思われるのですが、それ以外の箇所ではどうか。sero は時間副詞です。文法学において時間副詞はどういう位置を占めるのか。sero te amavi の文法学的な視点に関心をよせるようになりました。探求の巡礼は、はじまったばかりです。みなさまのご教示をいただきたく存じます。ご批判の矢を放つてください。 講演構成 第一章 TempusーDionysius Thrax における:ストア派における Tempus を Dionysius Thrax の断章において見る。 第二章 Adverbum temporale 第一節 Augustinusにおける:Sero te amavi (Conf. XXVII, 38) における Adverbum temporale の役割を見る。 第二節 Edgar Allan Poe における:Poe の Nevermore(大鴉)における Adverbum temporale の役割を見る。
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146th JSPS seminar
146th JSPS seminar will be held on 14 December 2013, 1:30 pm to 6:30 pm at Room 201, Bild. 12, Sophia University. Four presenters concentrate on the symposium theme “Darkness” and will deliver their papers. Masaki Oomori (Nanzan University), “Darkness—as the place of divine manifestation.” Wataru Hakamada (University of Tokyo), “Into the darkness—Pseudo-Dionysius Areopagita’s thought of the darkness.” Misa Shimizu (Waseda University), “Encounter with God in the darkness and the light—‘Jacobs Ladder’ and ‘Burning bush and Moses’ in Parecclesion of Chora Monastery, Istanbul.” Koutaro Hiramatsu (Sophia University), “Pietism in Mediaeval Jewish Thought—the understanding of God in the Ashkenazi Hasidic.”
第146回教父研究会のご案内
第146回教父研究会は、2013年12月14日(土)(13時30分-18時30分)に、上智大学12号館201号室(下図参照)において「闇」を共通テーマとしたシンポジウムを、上智大学教育イノベーション(詳細については、上智大学共生学研究会ブログ)と共催して開きます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 この件に関するお問い合わせは教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp) 大森正樹(南山大学)「闇-神現の場〔仮題〕」 メッセージ 光に対置される闇を神認識の場として捉える傾向はギリシア教父の思想に顕著に見られる。闇という一見否定的価値をもつものに、人間にとり最重要と思われる神認識の場を設定するこの志向性は何を物語り、また何を意味し、そこにおける神認識とはどのようなものなのだろうか。 本発表はこのような問題意識のもとに、まず旧約聖書や新約聖書の「闇」についての記述を外観し、教父思想に多大の影響を与えたフィロンによる「闇」の思想を探る。そしてニュッサのグレゴリオス等の教父の文献に見られる「闇」に関する言葉が二通り(グノフォスとスコトス)あることに着目し、この二語のもつ意味を分析し、神認識には「グノフォス」が深く関わることを見ていく。教父思想を集大成したと思われるグレゴリオス・パラマスでは、「闇」が擬ディオニュシオスの影響のもと、神認識に収斂していく様相を素描し、東方キリスト教における「神認識」と「闇」との関係を考察する。その際特に、東方霊性の具体的表現としての「イコン」に注目し、「燃える茨のイコン」と「キリスト変容のイコン」を取り上げ、「変容と暗闇」の関係を考察し、最終的に「闇」の中での神認識とは何であったに言及したい。 袴田渉(東京大学)「暗黒の中へ──偽ディオニュシオスの闇の思想」 メッセージ 本発表は、偽ディオニュシオス・アレオパギテース(六世紀頃)の主著の一つである『神秘神学(De mystica theologia)』の読解を通して、そこにおける「暗黒(γνόφος)」という語の意味内容の理解を目指す。同語は、東西のキリスト教神秘思想に共通する「闇」のイメージの一源泉であると共に、ディオニュシオスの思想において「神との合一」を語る場面で重要な役割を果たす鍵語であって、詳細な考察を要するものである。 このようなディオニュシオスにおける「暗黒」を理解するために、本発表では、『神秘神学』一章三節および二章のテクストに着目する。同テクストは、『出エジプト記』におけるモーセのシナイ山登攀の記述(七十人訳二十章一八~二一節)に基づいて著されているが、ディオニュシオスはその箇所を、独自の語彙や語法をもって解釈し、語り直している。そして、そのことはディオニュシオスの「暗黒」理解の特徴を明らかに示していると思われる。そこで、ここでは、とりわけ『出エジプト記』の上掲箇所との比較考察を通して、ディオニュシオスにおける「暗黒」の空間性を指摘したい。神との合一は、実に「場所(τόπος)」としての「暗黒の中」において為されるのであり、その際、暗黒の中へっていく者は、「無に属する者となる」と言われる。本発表では、如上の表現に注目し、解釈を試みる。 清水美佐(早稲田大学)「「闇」と「光」における神との出会い─コーラ修道院葬礼用礼拝堂における≪ヤコブの梯子≫と≪モーセと燃える柴≫考察」 メッセージ 旧約聖書において、ヤコブは夢で梯子の上に神を見、また闇のうちに神と格闘した。モーセは燃える柴の光に導かれて神の呼びかけを受けた。いずれの場合も神と直接出会うが、神の顔は確認されていない。ビザンティン後期の聖堂装飾には、≪ヤコブの梯子≫≪モーセと燃える柴≫の場面を組み合わせて描く作例が複数残る。トラブゾンのアギア・ソフィア聖堂やオフリドのパナギア・ペリブレプトス聖堂を初期の作例として、テサロニキのアギイ・アポストリ聖堂、イスタンブールのコーラ修道院、マケドニアのレスノヴォ修道院に見ることができる。 コーラ修道院では葬礼用礼拝堂の北壁に描かれている。礼拝堂後方からアプシス側へ向かって、≪ヤコブの梯子≫≪格闘するヤコブ≫≪モーセと燃える柴≫の順に並ぶ。燃える柴の場面にはモーセが三度描かれており、燃えつきぬ柴に驚く姿、履物の紐を解く姿に加えて、神を見ることを恐れて顔を覆う姿が表される。顔を覆う姿は、上述の他の聖堂における≪モーセと燃える柴≫には見られないものである。さらに、顔を覆うモーセの先には≪最後の審判≫≪天国≫の場面が続いている。 コーラ修道院葬礼用礼拝堂では、≪ヤコブの梯子≫≪モーセと燃える柴≫の連続、神を見ることを恐れて顔を覆うモーセの描出によって、「神と出会うが神の顔を見ることができない」ことが繰り返して強調され、直後に≪最後の審判≫≪天国≫が続くことによって、逆説的に「天において顔と顔を合わせて神を見る」ことを想起させるプログラムとなっている。 平松虹太郎(上智大学)「中世ユダヤ思想における敬虔主義の思潮─アシュケナーズ系ハシディームの神理解を巡って」 メッセージ 本発表は中世ユダヤ教における一つの思想運動(アシュケナーズ系ハシディームの思想)について言及するものである。アシュケナーズ系ハシディームとは12〜13世紀のドイツ(ラインラント)において一大勢力をほこり、後にカバラーに吸収されたユダヤ神秘主義の一思潮である。迫害の嵐吹き荒れるドイツで育ったこの思想の特徴は、敬虔さに対する異常なまでの情熱と神秘主義的な神理解にある。 それは同時代のスファラディー系ユダヤ人の思想家たちとは大きく異なったものであった。彼らにとってイスラーム思想を媒介としたアリストテレス的論理学はたいした意味を持たず、合理主義的な哲学的志向性は育まれることがなかった。むしろそこに見られるのは古代ユダヤの魔術やヘレニズムに端を発するオカルティズム、あるいは古代ドイツの魔法信仰や悪魔信仰といったあらゆる非合理と異質さの習合であった。 本発表ではある歴史図像学的問題を始点とし、アシュケナーズ系ハシディームが持つ思想的問題圏の重要性を垣間見たい。今回は特に彼らの神に関する言説に焦点を当てる予定である。すなわちアシュケナーズ系ハシディームにとって神の測り難さ(incomprehensibilis)はどのように捉えられてきたのか、そしてそれが彼らの現実の信仰生活にどのように関わってきたのかについて考察していきたい。そこではキリスト教神秘主義が見出した神的闇とは異なる神的光(カーボード)が一つの鍵となると思われる。 コメンテーター:リアナ・トリュファシュ(筑波大学)
145th JSPS seminar
145th JSPS seminar will be held on 28 September 2013, 2:00 pm to 6 pm at Room 401, Bild. 12, Sophia University. Two presenters will deliver their papers. Eriko Tsuji (Research Fellow (PD), Japan Society for the Promotion of Science / Hitotsubashi University), ‘The 11th Century Byzantine Marginal Psalter and the Reception of Patristic Thought.’ Michitaka Suzuki (Okayama University), ‘The Disenchantment of the Ancient Divine Statues.’
第145回教父研究会のご案内
第145回教父研究会は、2013年9月28日(土)に、上智大学12号館401号室において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 この件に関するお問い合わせは教父研究会事務局にお願いいたします。 〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1 東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp) 辻絵理子(日本学術振興会特別研究員PD/一橋大学)「ビザンティンの「余白詩篇」と教父思想の受容」 メッセージ 中期ビザンティン時代(9~14世紀)の作例が現存する「余白詩篇」は、その名の通り本文を綴じしろに寄せて設けた余白に挿絵を描く形式を有する写本群である。本文は旧約聖書の『詩篇』であるにも拘らず、挿絵には新旧約聖書、聖人伝、歴史上の事件など、テキストに収録されていない様々な典拠に基づいた主題が描かれる。それぞれの絵は異なる理由で本文と結びつけられており、殆どテキストの字義通りに描かれた挿絵、本文と関連付けて実在の人物が描きこまれた挿絵、予型論的解釈に基づいて描かれた挿絵などに分けられる。 その特徴から「註解挿絵」とも呼ばれる同形式のうち、本発表では11世紀の『テオドロス詩篇』を取り上げて、「余白詩篇」写本の特徴と、挿絵に見られる教父思想の受容について考察する。同系統の9世紀の作例が現存する同写本だが、11世紀には、それまで無名であった人物像に特定の聖人名が銘として書き込まれる、いわゆる聖人導入現象が見られ始める。ひとつひとつの挿絵が独自の理由で選択されて描かれていることもあり、こうした現象を全て説明し得るたったひとつの根拠を示すことは困難であろう。この時期に「余白詩篇」に描かれ始めた聖人たちの中には、著名な教父も含まれている。また、同写本は手本を参考にしつつも対応章句やレイアウトの改変を行うことで、様々な箇所で新たな読み解きを可能にしているが、そこに見られる当時の教父思想の受容を指摘する。 鐸木道剛(岡山大学教授)「古代の神像の脱魔術化:エウセビオスの場合」 メッセージ 古代の彫像は、今は美術品である。それを神像として真剣に拝む人は、今はいない。いつから美術品になったのか。パノフスキー(Erwin Panofsky 1892-1968)によると、ルネサンスによって古代との「距離」は決定的となり、神像は死に絶えた。だから美術品として復活した(Renaissance and Renascences in Western Art , 1944)。ビザンティン時代についてもマンゴー(Cyril Mango 1928- )は、パノフスキーのいう「距離」はなかったし、古物収集もなかったと断言している(DOP, 1963)。しかし逆に古代ギリシアにおいて神像を「もの」と見る見方はあった(紀元前5世紀フェイディアスのアテナ・パルテノス像、紀元前3世紀ヘーローンダース『擬曲』)。そういうなかでエウセビオス(c. 263-339)が『コンスタンティヌス伝』のなかで、古代の彫像を愚弄するだけではなく、都市の美しい飾りとしか見なしていないことは、彫像のみならずイコンをも「もの」としか見ない8世紀ヨハンネス・ダマスケノスを先取りする即物的な物質観を示していると解釈できないだろうか。
144th JSPS seminar
144th JSPS seminar will be held on 8 June 2013, 2:50 pm to 6 pm at Room 505, Bild. 11, Sophia University (General meeting: 1:30 pm to 2:30 pm). Two presenters will deliver their papers. Hisao Miyamoto (Sophia University), ‘Diadochos of Photiki.’ Tomoyuki Masuda (Waseda University), ‘Typological Interpretation of the Old Testament: the Church of Panagia Peribleptos in Ohrid, Macedonia.’
第144回教父研究会のご案内
第144回教父研究会は、2013年6月8日(土)に、上智大学11号館505号室において開かれます(総会: 13:30-14:30、発表: 14:50-18:00)。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 この件に関するお問い合わせは教父研究会事務局にお願いいたします。 〒192-0393 東京都八王子市東中野742-1 中央大学文学部 土橋茂樹研究室 (tsuchi[AT]tamacc.chuo-u.ac.jp) 宮本久雄(上智大学教授)「フォーティケーのディアドコス」 メッセージ 本発表では、五世紀の神学者・修道者フォーティケーのディアドコスの修徳神学に関わる。またその時代には、単性説、オリゲネス主義、メッサリア派などの、いわゆる異端が跋扈しており、彼はこれらの異説に対する反論も行なっている。この反論についても修徳神学との関連で取り上げたい。さて、ディアドコスの修徳神学は、後世ヘシュカスムとその神学とを先駆的に含んでいる。すなわち、イエスの御名の祈り、情念論、霊的感覚、知性における光の体験、愛、プネウマ(気)の働きなど、興味深い思索と体験が表明されているのである。その方向性は、次のような断章八九に顕著である。 「再生の洗礼を通して聖なる恩恵はわれわれに2つの善美なる恵みを授ける。そのうちの最初の恵みは、他方よりもはるかに勝る。最初の恵みは直ちに授けられる。なぜなら、それは水そのものにおいて我々に新生を授け、そして我々の罪の汚れを清めて霊魂のあらゆる特質、つまり神の似姿を輝かせる。他の恵みは神に類似することで、我々の協働を待っている。というのも、知性が聖霊の恵みを深く感受して味わいはじめるとき、聖霊によって神の似姿の上にいわば神への類似性が次第に書き加えられることを知らなければならないからである。」 ディアドコスはフィロカリアの精神が開花するエネルギーに満ちた時代の機運と動態をわれわれに明かし、現代における人間の生にある方位を示し、大いなるエネルギーを与えてくれるのである。 益田朋幸(早稲田大学教授)「オフリドの聖母聖堂における旧約の予型論的解釈」 メッセージ オフリド(マケドニア)のパナギア・ペリブレプトス聖堂は、1294/95年の年記を有する、後期ビザンティン美術を代表する基準作例でありながら、これまでまとまった研究がなされてこなかった。この聖堂に描かれた旧約の諸場面・人物は、予型論的解釈の下、聖母マリアとむすびつけられている。本発表では、そのいくつかの面を具体的に分析する。 ナルテクス(玄関廊)には、「モーセと燃える柴」「ソロモンのベッド」「神殿を建てるソフィア」「エゼキエルの閉ざされた扉」「モーセの幕屋」「ダニエルの夢解き」「ヤコブの梯子」の7主題が描かれている。後期ビザンティン美術(13~15世紀)に頻出する聖母予型場面の初出作例である。旧約の個々の場面の解釈については、初期以来の教父の伝統があるが、聖母予型を列挙する伝統としては、ロマノス・メロドスをはじめとする賛歌作者が考えられる。加えて9世紀の神学者、コンスタンティノポリス総主教ゲルマノスやクレタ主教アンドレアスらの寄与も重要である。 アプシスの周囲には29のメダイヨンが並べられ、主として旧約の人物像が配されている。人物の選択と配列には、教父の解釈に則った数字のシンボリズム(「三」は三位一体、「十二」は十二使徒、等)が見られる。特にそれほど重要ではない預言者フルが、本聖堂では多義的な役割を担わされている。「磔刑」を予型するだけでなく、信徒に水=恩寵を与える聖母を助ける者としても機能するのである。
143rd JSPS seminar
143rd JSPS seminar, the «Augustine Symposium», will be held on 16 March 2013, 1 pm to 5 pm at Central Library 9th fl. L 911, Sophia University. Two presenters will deliver their papers. Kohei Matsumura (Hiroshima Gakuin Junior and Senior High School), ‘audiamus in Confessions 9.10.25 of Augustine.’ Takaaki, Okazaki (Doshisha University), ‘Praise for understanding: Augustine’s Confessions 1.1.1 Revisited.’
第143回教父研究会のご案内
第143回教父研究会は、アウグスティヌスを共通テーマとし、2013年 3月 16日(土)13時– 17時に、上智大学中央図書館 9階 L911 において開かれます。これまでと会場が異なっておりますので、ご注意下さい。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。 松村康平(広島学院中学校・高等学校教諭)「audiamus―『告白』第9巻10章25節における―」 メッセージ 87年の秋の日、テベレ川の河口にある港街オスティア。そこでアウグスティヌスと母モニカは窓辺に腰掛け、二人で語り合う中、何らかの体験を得たという。それは『告白 (Confessiones)』第9巻10章23-26節に記され、ミラノのヴィジョン(第7巻)と並び、知られている。この体験は、その性格について新プラトン主義的なものであったか否かについて議論がなされ、「オスティアのvision」のように呼ばれてきた。しかし、J.J.オドンネルはこの体験について、むしろ「オスティアのaudition」と呼ぶに相応しいと指摘している。 真に、それはどのような体験であったのか。確かに、アウグスティヌスは『告白』第9巻10章25節において次のように言っている。「…ご自身を通して、まさにご自身がただ一人語り、それらを通してでなく、そのことばをわたしたちが聴くならaudiamus、肉の舌にも、天使の声にも、雲のどよめきにも、また、譬えの謎によるでもなく、これらにおいてわたしたちが愛する方ご自身を、これらなしに、わたしたちが聴くならaudiamus…」。このテクストにおいては、「わたしたちが聴くaudiamus」が二回、それを強調するかのように用いられているのである。 本発表では、このオスティアでの二人の対話に迫るに際して、この25節における「わたしたちが聴くaudiamus」の語に焦点を向け、『告白』における〈audire〉の言語用法を参照しつつ、彼があえて聴覚的イメージをもってこの体験を表現している意義について考察を試みたい。 岡嵜隆哲(同志社大学嘱託講師)「知解を求める讃美 ― アウグスティヌス『告白』冒頭箇所(第1巻1章1節)再論 ―」 メッセージ アウグスティヌスの『告白 (Confessiones)』の冒頭箇所(Ⅰ, ⅰ, 1)は、神と自己についての探求として貫かれる全巻の中でもとりわけ著者自身の探求の特徴(スタイル・方法)、およびその基本構造が集約的に表明されるテクストである。アウグスティヌスはここにおいて、神探求というみずからが当面せる課題の特殊性およびその困難さを十二分に受けとめつつ、多角的かつ自身にとって唯一可能であると自覚された筋に従い集中的に神へと衝迫するのである。 本テクストについてはすでに多くの先達、とりわけ前世期末を中心に相呼応する形で積み重ねられてきたわが国の研究者たちによる翻訳、逐語解、釈義の蓄積がある。 今回の発表では諸賢の業績を受けつつも、本テクストの成立がアウグスティヌスにおいて恩恵論の確立された『シンプリキアヌスへの手紙 (Ad Simplicianum de diversis quaestionibus)』の執筆直後であり、かつそこでの成果が反映されたものであることに鑑み、改めて恩恵の絶対的先行性という観点に重心を置いた仕方での新しい解釈を試みることにしたい。 本テクストに登場する多様な動詞群を三類(および五類)に類別化するということを方法として、それらの連関ないし統一の筋を見定めることにより、信仰を知解するという信と知の関係秩序、およびその信仰をも包摂し、それを可能にする神の恩恵への讃美による応答という筋において全体の構造を明らかにする(こうした方法および試みが含む問題性についても合わせて検討したい)。『告白』全体は、不安に始まり安息に終わるという形式以上に、そうした不安の充足ということを内包しつつも、讃美に始まり讃美に終わるということを根本の構成として有するのである。