第150回教父研究会は、2014年12月27日(土)14時から18時まで、上智大学紀尾井ビル112号室(地図向かって右端の13番の建物になります)において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。
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東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻
高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)
- 小山貴広(名古屋大学)「「感覚の深い洞窟」──アウグスティヌス主義者としての十字架のヨハネ」
- メッセージ:十字架のヨハネはアビラのテレジアと並ぶスペイン神秘主義を代表する人物の一人である。ヨハネの著作は、内容としては否定神学や恋愛神秘主義など様々な要素が混在しており、形式としては自作の詩の註解という特異なものである。そのためヨハネの思想の影響源に関して様々な推測が行われており、これまでテレジアを始めとして、教父、ドイツ神秘主義、トミズム、人文主義、果てはユダヤ、イスラームの神秘主義などが挙げられてきた。本発表はヨハネがアウグスティヌス主義者であったことを示すことを目的とする。具体的にはヨハネの詩「愛の生ける炎」の詩句「感覚の深い洞窟 (las profundas cavernas del sentido)」とその註解に着目することにより、(1) ヨハネが魂の神的な部分を洞窟としてイメージしており、この洞窟が「記憶の洞窟」としての側面を持つこと、(2) ヨハネの記憶論がアウグスティヌス(『告白』、『三位一体論』)の記憶論と語彙の上でも思想の上でも類似していること、(3) アウグスティヌスの記憶からタウラーの「深淵 (abgrúnde = abyssus)」などを経てヨハネの洞窟に至る、魂の神的な部分の系譜が存在すること、を順に見ていきたい。本発表を通してヨハネの詩句をキリスト教思想史の厚みを伴ったものとして提示できればと願っている。
- 波多野瞭(東京大学)「沈黙と恩寵:トマス・アクィナスにおける探求と教化(仮題)」
- メッセージ:トマス・アクィナスは晩年、ある神秘的経験の後に一切の著述活動を放棄した。本稿ではトマスの恩寵論を基本的な道筋としながら、この「沈黙」がトマスの知的探求及び教化の営みにおいて持つことになった射程を明らかにしてゆく。
トマスの雄弁と沈黙は矛盾しあうものでなく、むしろ後者は前者の完成の形態である。トマスの神学はそもそも神の把握不可能性に裏打ちされるため、沈黙は理性の失敗の証ではありえない。むしろそれは、語るべきことが全く残されていないという事態の否定的な表現であり、トマスを理性から解放し神へと結びつけた「成聖の恩寵」の痕跡である。
このような沈黙により、トマスが他者の教化を中止したのは確かである。しかし沈黙は語りと類を違えるのだから、伝達力を持たないということで沈黙に悪性を想定することはできない。さらに、著述による教化が現世における人間集団の秩序を構成する「無償の恩寵」である一方、トマス個人を神へと直接結びつける「成聖の恩寵」の賜物とされうる沈黙は、より高度の善を体現した「ふさわしい」ものとも考えられるのである。
とはいえ、トマスの沈黙は単に個人のものにとどまらない。雄弁な神学者の沈黙は特異な出来事として我々の推論的理性を賦活し、沈黙にまで至る知的営みを追体験させることになるだろう。それゆえトマスの沈黙は、彼の雄弁とともに特異な形式において善を伝達し、終局的には我々を直接的に神へと秩序づける、そのような恩寵の痕跡なのだと言えよう。
- メッセージ:トマス・アクィナスは晩年、ある神秘的経験の後に一切の著述活動を放棄した。本稿ではトマスの恩寵論を基本的な道筋としながら、この「沈黙」がトマスの知的探求及び教化の営みにおいて持つことになった射程を明らかにしてゆく。