第148回教父研究会のご案内

第148回教父研究会は、2014年6月14日(土)14時から18時まで、上智大学12号館301号室において開かれます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。研究会にさきだって、13時30分から14時まで、同所にて総会が開かれます。仔細については、後日会員の皆さままでご連絡を差しあげます。

この件に関するお問い合わせは、教父研究会事務局にお願いいたします。

〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻
高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)


  • 後藤里菜(東京大学)「中世キリスト教世界―与えられる「実際的な叫び」をめぐって」
    • 要旨: 中世キリスト教世界で聖なる意味を帯びた「叫び」と言えば、出エジプト記で主がモーセに述べる「なぜ私に向かって叫ぶのか Quid clamas ad me? (Exodus 14:15)」における叫びである。神の耳にのみ届くそのような「心の叫び」はアウグスティヌスからジェラルド・オブ・ウェールズ、ヤコブス・デ・ウォラギネらによって、繰り返し述べられてきた。それでは、他の人間の耳にも聞こえる、大きな音量を伴う「実際的な叫び」にはどのような意味がこめられてきたのだろうか。
       聖人伝やエクセンプラ集、奇跡譚等を紐解いてみると、「実際的な叫び」の中でも「意味のわからない(動物的な)叫び」は狂人、罪人、悪魔、地獄・煉獄など「悪しきもの」との結びつきが強かったことが明らかである。一方、「意味のわかる叫び」に関しては、子供や女性など力なき者が真実を述べる場合にしばしば現れる。
       以上のような傾向は中世の間じゅう変わらない一方で、12世紀後半以降その数を増す聖女伝において、与えられる「実際的な叫び」に新たな意味づけがされているように思われる。その叫びゆえ時に悪魔憑きとみなされながらも、最終的には「聖なる」女性として語られえたのは如何にしてか。従来個別的に扱われることの多かった聖女伝を「実際的な叫び」という文脈から捉え直してみたい。ワニーのマリやクリスティーナ・ミラビリス、フォリーニョのアンジェラ、リミニのキアラらを扱う。
  • 平野和歌子(京都大学)「三位一体における御父と御子の等しさ―アウグスティヌス『マクシミヌス批判』にもとづいて―」
    • 要旨:アウグスティヌスは、427年頃にアリウス派のマクシミヌスと公開討論を行った後、自分の見解を十分に示せなかったとして『アリウス派の司教マクシミヌス批判 (Contra Maximinum haereticum Arianorum episcopum libri duo)』を著した。この公開討論でアウグスティヌスとマクシミヌスが主要に対立したのは、御父と御子が実体について等しいかどうかであった。アウグスティヌスは聖書の正統的な解釈を示しながら御父と御子とが等しいことを論証し、さらにイエス・キリストが御父と御子との関係において適切に位置づけられるべきだと主張している。
       アウグスティヌスは、この公開討論の際だけでなく『三位一体論 (De trinitate)』でもアリウス派を批判している。『三位一体論』の中でも特にアリウス派と関連する第七巻までの執筆時期は、公開討論よりも十年ほど前だと考えられる。それゆえ、『三位一体論』と『マクシミヌス批判』との間では御父と御子が等しいという見解に揺らぎはないが、『マクシミヌス批判』でより深まった議論も展開されている。例えば『三位一体論』では御父と御子の等しさについて「実体」や「関係」という概念を使用した説明のみにとどまっているようだが、『マクシミヌス批判』では御父と御子の等しさを主張することの救済論的意義が意識されている。
       そこで本発表では、アウグスティヌスの『マクシミヌス批判』を見ることで、御父と御子の等しさについて検討し、その等しさの理解の上で、イエス・キリストが救済論において果たす役割を明らかにする。