第146回教父研究会のご案内

第146回教父研究会は、2013年12月14日(土)(13時30分-18時30分)に、上智大学12号館201号室(下図参照)において「闇」を共通テーマとしたシンポジウムを、上智大学教育イノベーション(詳細については、上智大学共生学研究会ブログ)と共催して開きます。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

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 この件に関するお問い合わせは教父研究会事務局にお願いいたします。

〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻
高橋英海 (takahashi[AT]ask.c.u-tokyo.ac.jp)


  • 大森正樹(南山大学)「闇-神現の場〔仮題〕」
    • メッセージ 光に対置される闇を神認識の場として捉える傾向はギリシア教父の思想に顕著に見られる。闇という一見否定的価値をもつものに、人間にとり最重要と思われる神認識の場を設定するこの志向性は何を物語り、また何を意味し、そこにおける神認識とはどのようなものなのだろうか。
       本発表はこのような問題意識のもとに、まず旧約聖書や新約聖書の「闇」についての記述を外観し、教父思想に多大の影響を与えたフィロンによる「闇」の思想を探る。そしてニュッサのグレゴリオス等の教父の文献に見られる「闇」に関する言葉が二通り(グノフォスとスコトス)あることに着目し、この二語のもつ意味を分析し、神認識には「グノフォス」が深く関わることを見ていく。教父思想を集大成したと思われるグレゴリオス・パラマスでは、「闇」が擬ディオニュシオスの影響のもと、神認識に収斂していく様相を素描し、東方キリスト教における「神認識」と「闇」との関係を考察する。その際特に、東方霊性の具体的表現としての「イコン」に注目し、「燃える茨のイコン」と「キリスト変容のイコン」を取り上げ、「変容と暗闇」の関係を考察し、最終的に「闇」の中での神認識とは何であったに言及したい。
  • 袴田渉(東京大学)「暗黒の中へ──偽ディオニュシオスの闇の思想」
    • メッセージ 本発表は、偽ディオニュシオス・アレオパギテース(六世紀頃)の主著の一つである『神秘神学(De mystica theologia)』の読解を通して、そこにおける「暗黒(γνόφος)」という語の意味内容の理解を目指す。同語は、東西のキリスト教神秘思想に共通する「闇」のイメージの一源泉であると共に、ディオニュシオスの思想において「神との合一」を語る場面で重要な役割を果たす鍵語であって、詳細な考察を要するものである。
       このようなディオニュシオスにおける「暗黒」を理解するために、本発表では、『神秘神学』一章三節および二章のテクストに着目する。同テクストは、『出エジプト記』におけるモーセのシナイ山登攀の記述(七十人訳二十章一八~二一節)に基づいて著されているが、ディオニュシオスはその箇所を、独自の語彙や語法をもって解釈し、語り直している。そして、そのことはディオニュシオスの「暗黒」理解の特徴を明らかに示していると思われる。そこで、ここでは、とりわけ『出エジプト記』の上掲箇所との比較考察を通して、ディオニュシオスにおける「暗黒」の空間性を指摘したい。神との合一は、実に「場所(τόπος)」としての「暗黒の中」において為されるのであり、その際、暗黒の中へっていく者は、「無に属する者となる」と言われる。本発表では、如上の表現に注目し、解釈を試みる。
  • 清水美佐(早稲田大学)「「闇」と「光」における神との出会い─コーラ修道院葬礼用礼拝堂における≪ヤコブの梯子≫と≪モーセと燃える柴≫考察」
    • メッセージ 旧約聖書において、ヤコブは夢で梯子の上に神を見、また闇のうちに神と格闘した。モーセは燃える柴の光に導かれて神の呼びかけを受けた。いずれの場合も神と直接出会うが、神の顔は確認されていない。ビザンティン後期の聖堂装飾には、≪ヤコブの梯子≫≪モーセと燃える柴≫の場面を組み合わせて描く作例が複数残る。トラブゾンのアギア・ソフィア聖堂やオフリドのパナギア・ペリブレプトス聖堂を初期の作例として、テサロニキのアギイ・アポストリ聖堂、イスタンブールのコーラ修道院、マケドニアのレスノヴォ修道院に見ることができる。
       コーラ修道院では葬礼用礼拝堂の北壁に描かれている。礼拝堂後方からアプシス側へ向かって、≪ヤコブの梯子≫≪格闘するヤコブ≫≪モーセと燃える柴≫の順に並ぶ。燃える柴の場面にはモーセが三度描かれており、燃えつきぬ柴に驚く姿、履物の紐を解く姿に加えて、神を見ることを恐れて顔を覆う姿が表される。顔を覆う姿は、上述の他の聖堂における≪モーセと燃える柴≫には見られないものである。さらに、顔を覆うモーセの先には≪最後の審判≫≪天国≫の場面が続いている。
       コーラ修道院葬礼用礼拝堂では、≪ヤコブの梯子≫≪モーセと燃える柴≫の連続、神を見ることを恐れて顔を覆うモーセの描出によって、「神と出会うが神の顔を見ることができない」ことが繰り返して強調され、直後に≪最後の審判≫≪天国≫が続くことによって、逆説的に「天において顔と顔を合わせて神を見る」ことを想起させるプログラムとなっている。
  • 平松虹太郎(上智大学)「中世ユダヤ思想における敬虔主義の思潮─アシュケナーズ系ハシディームの神理解を巡って」
    • メッセージ 本発表は中世ユダヤ教における一つの思想運動(アシュケナーズ系ハシディームの思想)について言及するものである。アシュケナーズ系ハシディームとは12〜13世紀のドイツ(ラインラント)において一大勢力をほこり、後にカバラーに吸収されたユダヤ神秘主義の一思潮である。迫害の嵐吹き荒れるドイツで育ったこの思想の特徴は、敬虔さに対する異常なまでの情熱と神秘主義的な神理解にある。
       それは同時代のスファラディー系ユダヤ人の思想家たちとは大きく異なったものであった。彼らにとってイスラーム思想を媒介としたアリストテレス的論理学はたいした意味を持たず、合理主義的な哲学的志向性は育まれることがなかった。むしろそこに見られるのは古代ユダヤの魔術やヘレニズムに端を発するオカルティズム、あるいは古代ドイツの魔法信仰や悪魔信仰といったあらゆる非合理と異質さの習合であった。
       本発表ではある歴史図像学的問題を始点とし、アシュケナーズ系ハシディームが持つ思想的問題圏の重要性を垣間見たい。今回は特に彼らの神に関する言説に焦点を当てる予定である。すなわちアシュケナーズ系ハシディームにとって神の測り難さ(incomprehensibilis)はどのように捉えられてきたのか、そしてそれが彼らの現実の信仰生活にどのように関わってきたのかについて考察していきたい。そこではキリスト教神秘主義が見出した神的闇とは異なる神的光(カーボード)が一つの鍵となると思われる。
    • コメンテーター:リアナ・トリュファシュ(筑波大学)