第161回教父研究会は、2017年9月30日(土)14時から18時まで、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1において開かれます。
- 山根息吹(東京大学)「ニュッサのグレゴリオス『その時子自身も』※1における万物回復論──人格の完成と人間本性全体の完成の関わりをめぐって」
- メッセージ:
メッセージ:ニュッサのグレゴリオスの万物回復論に関して、グレゴリオスが実体的単一性を有する人間本性全体にロゴスが受肉によって混ざったと考える解釈を根拠にして、終末における人間本性全体の完成を主張していることが複数の先行研究によって注目されている。その一方で、ラドローはこのような普遍的人間本性に基づく救済論が、グレゴリオスによってより多くのテキストで主張されているような自由意志に基づく個人の完成に対する思想とは調和し難いものであるという解釈上の問題を指摘をしている。※2
このような先行研究を受けて本発表では、グレゴリオスが、人間本性全体の完成とキリストの模倣や悪からの浄化という人格の完成の両方に言及しながら、万物の完成へ至る過程を詳細に論じている著作である『その時子自身も』を読み解いていく。その際、先行研究が『その時子自身も』を断片的に引用して、先の結論を導き出していたのに対して、より広い文脈で再解釈することで、グレゴリオスが人間本性全体の完成と人格の完成を万物の完成へ至る救済過程に矛盾なく位置付けていることを明らかにする。さらに、人格の完成の捉え方を新たに検証することで、グレゴリオスが人格の完成を、人間本性全体の完成と対置される個人の問題としてではなく、終末における完成へ向かう他者ないし人間本性全体との関わりのなかに見出していることについて指摘したい。※1 『ニュッサの司教グレゴリオスの「その時子自身もすべてを彼に服従させた方に服従するであろう」に対する〔論説〕』(In illud: tunc GNOⅲ/2.3.:ΓΡΗΓΟΡΙΟΥ ΕΠΙΣΚΟΠΟΥ ΝΥΣΣΗΣ ΕΙΣ ΤΟ ΤΟΤΕ ΚΑΙ ΑΥΤΟΣ Ο ΥΙΟΣ ΥΠΟΤΑΓΗΣΕΤΑΙ ΤΩΙ ΥΠΟΤΑΞΑΝΤΙ ΑΥΤΩΙ ΤΑ ΠΑΝΤΑ)を『その時子自身も』と略すこととする。
※2 Morwenna Ludlow, Universal Salvation: Eschatology in the Thought of Gregory of Nyssa and Karl Rahner, Oxford, 2000, pp. 92–94.
- メッセージ:
- 大庭貴宣(日本長老教会・キリスト聖書神学校)「殉教者ユスティノスにおける「神の力」と「聖霊」の理解──『第一弁明』第33章と『対話』第87章を中心に」
- メッセージ:
殉教者ユスティノス (100–165) が、どのように「神の力」と「聖霊」を理解したかについて、本発表で考察する。そこで、まず『第一弁明』第33章を取り上げる。この章は、キリストの受肉について記されている。特に、注目すべきは第33章4節の「神の力が処女に臨み、彼女をおおい、処女のまま身ごもらせたのです」と、第33章6節の「そして聖霊が処女に臨んでおおい、交わりを通してではなく、力によって身ごもらせたのです」という記述である。つまり、第33章4節では、マリヤに臨み、おおったのは「神の力」である。けれども、第33章6節では「聖霊」が臨んでおおったとある。そのため、マリヤを身ごもらせたのは、「神の力」とも「聖霊」ともなる。
そこで、ユスティノスにおいて「神の力」と「聖霊」は区別されていたか、あるいは混同されていたかという疑問が生じる。これはユスティノスにおいて、三位一体が確立されていたか、あるいは二位一体であったかに繋がる課題である。さらに聖霊を位格 (persona) として捉えていたかについても検討の必要性がある。
次いで、ユスティノスの「神の力」と「聖霊」の働きを検討するために『対話』第87章を取り上げる。この箇所は、洗礼時、キリストに聖霊が臨んだことについて述べている箇所であるが、リヨンのエイレナイオス (130/140–202) の聖霊理解と比較しつつ、ユスティノスの聖霊理解を浮き彫りにしたい。
- メッセージ: