第143回教父研究会は、アウグスティヌスを共通テーマとし、2013年 3月 16日(土)13時– 17時に、上智大学中央図書館 9階 L911 において開かれます。これまでと会場が異なっておりますので、ご注意下さい。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。
- 松村康平(広島学院中学校・高等学校教諭)「audiamus―『告白』第9巻10章25節における―」
- メッセージ 87年の秋の日、テベレ川の河口にある港街オスティア。そこでアウグスティヌスと母モニカは窓辺に腰掛け、二人で語り合う中、何らかの体験を得たという。それは『告白 (Confessiones)』第9巻10章23-26節に記され、ミラノのヴィジョン(第7巻)と並び、知られている。この体験は、その性格について新プラトン主義的なものであったか否かについて議論がなされ、「オスティアのvision」のように呼ばれてきた。しかし、J.J.オドンネルはこの体験について、むしろ「オスティアのaudition」と呼ぶに相応しいと指摘している。
真に、それはどのような体験であったのか。確かに、アウグスティヌスは『告白』第9巻10章25節において次のように言っている。「…ご自身を通して、まさにご自身がただ一人語り、それらを通してでなく、そのことばをわたしたちが聴くならaudiamus、肉の舌にも、天使の声にも、雲のどよめきにも、また、譬えの謎によるでもなく、これらにおいてわたしたちが愛する方ご自身を、これらなしに、わたしたちが聴くならaudiamus…」。このテクストにおいては、「わたしたちが聴くaudiamus」が二回、それを強調するかのように用いられているのである。
本発表では、このオスティアでの二人の対話に迫るに際して、この25節における「わたしたちが聴くaudiamus」の語に焦点を向け、『告白』における〈audire〉の言語用法を参照しつつ、彼があえて聴覚的イメージをもってこの体験を表現している意義について考察を試みたい。
- メッセージ 87年の秋の日、テベレ川の河口にある港街オスティア。そこでアウグスティヌスと母モニカは窓辺に腰掛け、二人で語り合う中、何らかの体験を得たという。それは『告白 (Confessiones)』第9巻10章23-26節に記され、ミラノのヴィジョン(第7巻)と並び、知られている。この体験は、その性格について新プラトン主義的なものであったか否かについて議論がなされ、「オスティアのvision」のように呼ばれてきた。しかし、J.J.オドンネルはこの体験について、むしろ「オスティアのaudition」と呼ぶに相応しいと指摘している。
- 岡嵜隆哲(同志社大学嘱託講師)「知解を求める讃美 ― アウグスティヌス『告白』冒頭箇所(第1巻1章1節)再論 ―」
- メッセージ アウグスティヌスの『告白 (Confessiones)』の冒頭箇所(Ⅰ, ⅰ, 1)は、神と自己についての探求として貫かれる全巻の中でもとりわけ著者自身の探求の特徴(スタイル・方法)、およびその基本構造が集約的に表明されるテクストである。アウグスティヌスはここにおいて、神探求というみずからが当面せる課題の特殊性およびその困難さを十二分に受けとめつつ、多角的かつ自身にとって唯一可能であると自覚された筋に従い集中的に神へと衝迫するのである。
本テクストについてはすでに多くの先達、とりわけ前世期末を中心に相呼応する形で積み重ねられてきたわが国の研究者たちによる翻訳、逐語解、釈義の蓄積がある。
今回の発表では諸賢の業績を受けつつも、本テクストの成立がアウグスティヌスにおいて恩恵論の確立された『シンプリキアヌスへの手紙 (Ad Simplicianum de diversis quaestionibus)』の執筆直後であり、かつそこでの成果が反映されたものであることに鑑み、改めて恩恵の絶対的先行性という観点に重心を置いた仕方での新しい解釈を試みることにしたい。
本テクストに登場する多様な動詞群を三類(および五類)に類別化するということを方法として、それらの連関ないし統一の筋を見定めることにより、信仰を知解するという信と知の関係秩序、およびその信仰をも包摂し、それを可能にする神の恩恵への讃美による応答という筋において全体の構造を明らかにする(こうした方法および試みが含む問題性についても合わせて検討したい)。『告白』全体は、不安に始まり安息に終わるという形式以上に、そうした不安の充足ということを内包しつつも、讃美に始まり讃美に終わるということを根本の構成として有するのである。
- メッセージ アウグスティヌスの『告白 (Confessiones)』の冒頭箇所(Ⅰ, ⅰ, 1)は、神と自己についての探求として貫かれる全巻の中でもとりわけ著者自身の探求の特徴(スタイル・方法)、およびその基本構造が集約的に表明されるテクストである。アウグスティヌスはここにおいて、神探求というみずからが当面せる課題の特殊性およびその困難さを十二分に受けとめつつ、多角的かつ自身にとって唯一可能であると自覚された筋に従い集中的に神へと衝迫するのである。