第174回教父研究会例会のご案内

第174回教父研究会は 2021年 9月 25日(土)オンライン(Zoom)にて開催される予定です。皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

日時:2021年 9月 25日(土)14:30 開始

会場:ミーティングURL, ID, パスコードをメール、あるいは手紙にて会員の皆様にお知らせしています。届いていない場合は、お手数ですが事務局までお問い合わせください。

参加にあたっては、次の三点を守ってください。
1. 表示名は「氏名」にしてください。
2. 司会者・発表者以外は、音声をミュートにしてください。質疑応答の際に司会者に指名されたときのみ、オンにしてください。
3. 質問するときは「手を挙げる」機能を用い、司会者に指名されるのをお待ちください。

今回は非会員の参加も可能となっております。関心のありそうなお知り合いがいらっしゃる場合は、こちらの「非会員専用参加受付フォーム」をお知らせしてください。

懇親会は実施しませんが、例会後もしばらくZoomミーティングを開いたままにいたしますので、自由にご歓談ください。

発表題目:アウグスティヌスにおける悪なる欲望の癒し―superbiaとhumilitasを軸に―

発表者:渡邉蘭子(大東文化大学)

要旨:
 アウグスティヌスは晩年に向かうほど悪なる欲望が現世で残り続けることを強調するようになった。洗礼を受けたとしても身体は来世において贖われるため、特に、歪んだ悪なる身体的欲望は現世に生きる限り残り続ける。この点はルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちに引き継がれ、「罪の赦し」の強調や「宣義」としての義の主張へとつながった。他方で、アウグスティヌス自身は現実的な癒し、いわゆる「成義」についても語っている。しかし、悪なる身体的欲望の残存と癒しがどのような関係にあるのかについてはこれまで十分に論じられていない。
 この点を明らかにするための重要な軸は「高慢(superbia)」と「卑賎(humilitas)」という二つの対比的なあり方である。アウグスティヌスによれば、すべての罪の根源は神に背く「高慢」であり、悪なる身体的欲望も根本的にはそこから生じている。そうした「高慢」というあり方がキリストの受肉と十字架の死による「卑賎」によって癒されることにより、悪なる身体的欲望も癒されていく。本発表ではそうした点について『三位一体論』を中心に後期著作を分析する。
 こうした分析をとおして、アウグスティヌスが悪なる欲望の残存とその癒しを循環的に捉えていることを示したい。すなわち、悪なる欲望は現世では残り続けるが、そのことは、より根本的な罪である「高慢」を避け、「卑賎」になって神に向かうことができる契機となり、現実的な癒しにつながっている。これが「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(2 Cor. 12: 9) の意味として考えられている事態である。

この件に関するお問い合わせは下記教父研究会事務局にお願いいたします。

〒141-8642東京都品川区東五反田三丁目16-21
清泉女子大学文学部文化史学科
坂田奈々絵研究室
mail: secty.jsps [at] gmail.com